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804年 - 1296年↓首都不明
公爵
973年 - 1011年ベルンハルト1世
1138年 - 1142年アルブレヒト熊公
1142年 - 1180年ハインリヒ3世
1212年 - 1260年アルブレヒト1世
変遷
カロリング朝による冊封804年
ヴェルフ家による支配1137年
ヴェルフ家の公領喪失、アスカーニエン家の公領獲得1180年
ヨハン1世とアルブレヒト2世の共同統治1260年
ザクセン=ラウエンブルクとザクセン=ヴィッテンベルクに分裂1296年
ヴィッテンベルク公家断絶1422年
先代次代
古ザクセンザクセン=ヴィッテンベルク
ザクセン=ラウエンブルク
オルデンブルク (領邦)
アンハルト侯国
ヴェストファーレン公国
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク
ブランケンブルク侯国
テクレンブルク伯領
ホーヤ伯領
ブレーメン大司教領
マクデブルク大司教領
ザクセン公国(ザクセンこうこく、独: Herzogtum Sachsen)は、中世から近世にかけて北部ドイツ地方一帯を支配した領邦。その版図は時代によって変遷があって一様ではないが、おおむね現在のドイツのザクセン州、ニーダーザクセン州、ノルトライン=ヴェストファーレン州、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州、ザクセン=アンハルト州にまたがる。何度かの分裂と統合を経て、その一系統が1806年の神聖ローマ帝国の解体によってザクセン王国となった。ドイツ諸邦の中ではオーストリア、プロイセン、バイエルンと共に長く重要位置を占めた国であり、ポーランドを実質支配した時期もある。 もともとエルベ川北岸のホルシュタイン一帯に集落を営んでいたザクセン人は、2世紀から4世紀にかけて徐々に生存圏を拡大していった。5世紀には一部のザクセン人(サクソン人)がユトランド半島のアングル人・ジュート人と共にイギリスに上陸し、いわゆるアングロ・サクソン人の元となった。6世紀初頭にはザクセン人はライン川一帯まで勢力を広げていた。8世紀からフランク王国が東方への侵攻を開始、ザクセンも抵抗の末にその版図の一部となった。フランク王カール大帝は、降伏したザクセン人のリーダーであるヴィドゥキントを改宗させ、ザクセン公とした。 844年、リウドルフがザクセン公となり、リウドルフィング家の始祖となった。リウドルフィング家はフランク王国内でも力を持ち、ハインリヒ1世は東フランク王となってザクセン朝を開き、息子のオットー2世が962年に初代の神聖ローマ皇帝オットー1世となった。オットー1世はザクセンを留守にすることが多かったため、ヘルマン・ビルングをザクセン辺境伯、後にザクセン副公とし、ザクセンの統治を任せた。ヘルマンの息子のベルンハルト1世の代には正式にザクセン公とされた。
歴史
前史