ザクセンハウゼン強制収容所
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ザクセンハウゼンの囚人たち 1938年12月19日

ザクセンハウゼン強制収容所(:Konzentrationslager Sachsenhausen)は、ナチス・ドイツが首都ベルリンの北部ブランデンブルク州オラニエンブルクに設置した強制収容所である。

1993年1月以降、ザクセンハウゼン追悼博物館(独:Gedenkstatte und Museum Sachsenhausen)となっている。
歴史ザクセンハウゼン強制収容所を取り囲む鉄条網と電気柵。それらと壁の間は看守の巡視路だった。ナチス強制収容所のお約束の標語「働けば自由になる」(Arbeit Macht Frei)はこの収容所の門にもついていた。

アドルフ・ヒトラーを党首とする国家社会主義ドイツ労働者党(公式略称NSDAP党、蔑称ナチス党)政権が誕生したばかりの1933年3月にプロイセン州首相ヘルマン・ゲーリング突撃隊(SA)に命じてオラニエンブルクビール工場を改築してオラニエンブルク強制収容所(KZ Oranienburg)を創設した。しかしこのオラニエンブルク強制収容所はザクセンハウゼン強制収容所とは異なる。長いナイフの夜事件以降に強制収容所の監督権が親衛隊(SS)に移った後の1935年2月にこの収容所はいったん廃止されて強制収容所総監テオドール・アイケ親衛隊中将(当時)の本部に変わっている。

しかし親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの命令によりオラニエンブルクに再度強制収容所が置かれることになり、1936年7月よりエステルヴェーゲン強制収容所(KZ Esterwegen)から50人ばかりの囚人が送られてきて、かつてオラニエンブルク強制収容所のあった場所に立つ建物(強制収容所総監本部)の東側にザクセンハウゼン強制収容所の建設が開始された。8月には初代所長としてカール・オットー・コッホが赴任してきた。

この収容所の敷地は一辺が600mの二等辺三角形型をしており、総面積は190ヘクタールほどであった。収容所の周囲は高電圧の鉄条網と柵、さらに2.7mの高さの壁で囲まれていた。鉄条網と壁の間は2mほどあり、そこは看守の巡視路になっていた。さらにサーチライト機関銃が備わった監視塔もかなりの数が設置されていた。収容所の西側には強制収容所総監本部があり、ヨーロッパ中のナチ強制収容所の監督がそこで行われていた。そのためザクセンハウゼンは各収容所で囚人から奪った金品が集められる保管庫でもあった。

収容された囚人の数は1937年には2300人だったが、開戦時には1万人を超え、さらに大戦末期には4万7000人を超えていた。初期には共産党員や社民党員など政治犯やジプシーなどが収容されていたが、水晶の夜事件以後はユダヤ人も送られてくるようになった。開戦後には各地の占領地で逮捕された者が続々と送り込まれて収容者数が急増し、最終的にこの収容所へ送り込まれた人々の総計は約20か国20万人を超えるという。

この収容所は規模が巨大で、ドイツ共産党員など組織だった政治犯の囚人たちを主に収容していたため、収容所内に秘密抵抗組織が存在していた。彼らはこっそりとサボタージュしてドイツの生産率を落とすことに努めた。収容所を管理するナチスの側もしばしばサボタージュした者の摘発を行ったが、秘密組織の完全な撲滅はできなかったようである。

この収容所は絶滅収容所ではないが、戦後ソ連によって行われたザクセンハウゼン強制収容所の看守を裁いた軍事法廷によると、1943年3月半ばに所長のアントン・カイントルが新たな処刑方法としてガス室を導入していたという。また大戦末期には連合軍爆撃機によるオラニエンブルク無差別爆撃でこの収容所の囚人たちも大勢爆死するようになった。

1945年4月21日、ソ連赤軍の接近でついに収容所は閉鎖を余儀なくされた。収容されていた囚人たちは別の収容所へ向けて歩かされたが、すでにナチス・ドイツが無政府状態になっていたこともあり、多数の囚人がこの徒歩での移動中に親衛隊やドイツ国防軍の兵士たちにより無法に虐殺されていった。

戦後、所長のアントン・カイントル以下、ザクセンハウゼン強制収容所の主だった看守たちはソ連の軍事裁判にかけられ、その法廷でカイントルはガス室の存在を認めた。

ニュルンベルク裁判で、ソ連はザクセンハウゼン収容所で84万人ものソ連軍の捕虜が殺害された。と主張したが[注釈 1]、これはソ連による誇張や捏造であった[1]。実際のソ連捕虜の死亡者数は、ザクセンハウゼン収容所博物館の公式サイトによれば、1万人を少し上回る程度である[2]
「罰」「杭」の罰のための木の柱

反抗的な態度をとったり失態をした囚人には親衛隊員が各種の「罰」を加えた。

比較的軽い罰は「ヒキガエル」と呼ばれる罰であった。手を頭の後ろに組んでしゃがんだまま飛び跳ねるといういわゆる「ウサギ跳び」を繰り返す。ただし親衛隊員が殴りつけてくる。

より重い罰として鋼の棒で殴りつける「棒打ち」(シュラーグ)と呼ばれる罰があった。打たれる回数は処罰の重さによって決まる。また打たれる回数は囚人が声を出して数えねばならなかった。数えないときはその殴打は回数に含まれなかった。気絶してしまった時には水が掛けられて無理やり目を覚まさせた。殴打の回数が多い場合、絶命に至ることも多かった。

「杭」と呼ばれる罰もある。まず鎖が垂れ下がっている3メートルの木の柱に囚人を後ろ手で組まされた状態で足が地から離れるまで吊るしあげ、腕がねじ上げられた状態にする。さらにその苦痛の姿勢のままで数時間にわたり親衛隊員に殴りつけられる罰である。

処刑することが決まった囚人は見せしめにするため全員が集まる夕方の点呼の際に公開絞首刑に処された。一方「Z施設」と呼ばれる火葬場の近くの隠れ処刑場も存在し、ここで秘密裏の処刑・虐殺も行われていた。ガス室もこの「Z施設」の中に設置されている。
人体実験

1961年のデュセルベルク刑事裁判で親衛隊員が自供したところによるとこの強制収容所にオットー・スコルツェニー親衛隊中佐国家保安本部サボタージュ取り締まり班として赴任してきた時期があり、この際にスコルツェニ?は囚人の身体を使って毒入り弾丸を囚人に撃ち込んで効果を調べる実験をしたという。


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