ザキー・アル=アルスーズィー
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ザキー・アル=アルスーズィー1960年代初頭のアルスーズィー
生誕1900年 6月
オスマン帝国ラタキア
死没1968年7月2日(満68歳没)
シリアダマスカス
時代20世紀の哲学
地域東洋哲学
学派バアス主義
アラブ・ナショナリズム
研究分野哲学
言語学
歴史学
社会学
政治
主な概念バアス主義の創始者の一人
影響を受けた人物

イマヌエル・カント
ルネ・デカルト
ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ
アンリ・ベルクソン
カール・マルクス
ウラジーミル・レーニン
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
オスヴァルト・シュペングラー
ジュゼッペ・マッツィーニ
イブン・アラビー
イブン・ハルドゥーン

影響を与えた人物

ミシェル・アフラク
サラーフッディーン・アル=ビータール
ハーフィズ・アル=アサド
サラーフ・ジャディード
バッシャール・アル=アサド

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ザキー・アル=アルスーズィー(アラビア語: ??? ????????‎, ラテン文字転写: Zak? al-Ars?z?、1900年6月 - 1968年7月2日) は、シリア哲学者言語学者社会学者歴史家であり、アラブ・ナショナリストである。彼の思想は、バアス主義とその政治運動の発展に重要な役割を果たした。生涯にわたって幾つかの書籍を出版し、その中では『アラブの天賦の才はその言語にある』(1943年)が有名である。

アルスーズィーは、シリア・ラタキア中流階級の家庭に生まれ、フランスソルボンヌ大学留学中に、ナショナリズムに興味を持った。1930年にシリアに戻り、1933年に民族行動同盟(LNA) のメンバーをなった。その後、政党活動に幻滅し1938年ダマスカスに移り1939年にはLNAを脱退した。ダマスカスにおいては、学生を中心とするヨーロッパ史、ナショナリズム、哲学について議論するグループを主宰していた。LNAを去って間もなく、「明確な教義」を持ったアラブ・ナショナリストの政党として、アラブ民族党を設立した。バグダードで職を得たため短期間の活動であったが、すぐにシリアに戻ることになり、1940年11月に新たに秘密結社「アラブ・バアス」を結成した。1944年にメンバーのほとんどがアフラクとビータールの率いるアラブ・バアス運動に合流したが、両者は思想的にはほぼ同一であった。

1947年に 2つのバアス運動は合併し、後に政権を取ることになるアラブ・バアス党としてまとまった。しかし、合併したものの、アルスーズィーは合併大会に出席せず、党員資格も与えられなかった。1940年代から1950年代の時期には、政治から離れて教員として働いた。だが、1960年代のバアス党政権内の権力闘争が彼を復帰させることになった。政権内でアフラクビータール派閥と、サラーフ・ジャディードとハーフィズ・アル=アサドの派閥の間の対立が起きた。アフラクとビータールは敗れ1966年にシリアから逃れた。アフラクは、シリアのバアス党と決別したイラクのバアス党のもとに迎えられた。そのため、シリアのバアス党は、アフラクとビータールに代わるイデオローグとしてアルスーズィーを復帰させた。

アルスーズィーの社会、言語およびナショナリズムに関する思想はバアス主義の思想の一部となった。アラブ人が過去の千年間を失っていたアラブのアイデンティティを再確立するときにアラブ国家は統一される、というのがその考えであった。アラブの統一への鍵は言語であるとした。
生涯
子供時代・青年時代:1899年-1930年

アルスーズィーは、1900年にオスマン帝国支配下のラタキアのアラウィー派の中流家庭に生まれた[1]。母親のマリヤムが著名な宗教一家の出身である一方で、父親のナジーブは弁護士だった。2人の兄と2人の姉がいた。1904年に一家でアンティオキアに移住した。その頃、クッターブ(初等教育機関)で学び始め、コーランを記憶した。4年後、両親は彼にオスマン帝国内の正統な教育を受けさせるためにRu?diye(中等学校)に入学させた。1915年、彼の父は民族主義的な活動をしたとして、オスマン帝国当局によって逮捕された。アルスーズィーは後にアラブ・ナショナリズムに関心を抱くきっかけになった出来事であったと回想していた[2]。彼の父が短期間投獄された後、一家はコンヤの街に移住させられた。1年後、アンティオキアに戻ることが許された。アルスーズィーによると、彼の父は、ファイサル1世がダマスカス入りしたというニュースを聞いて、アンタキアの政府庁舎のオスマン帝国旗をハーシム家の旗に取り替えた。

第一次世界大戦後、アルスーズィーはレバノンの在俗会(Institut Laic)で学び始めた。そこで哲学に触れると共に、フランス語の語学力を極めた。一方で無神論者として煙たがられた。彼はしばしば、「神の子より地上の我々のほうがよほど様々な問題を解決できる」と言っていた[3]。修了後、アンティオキアの中等学校の数学教師の職を得たが、その後アルスーズ学区を統率する職に就き、1924年から1926年まで務めた。1927年、フランス高等弁務事務所から奨学金を得てソルボンヌ大学(パリ大学)に留学した。1930年まで留学していたが、学位を得ることは無かった。留学中、前植民地行政官ジャン・ガルミエと親交を結んだ。ソルボンヌでは19世紀ヨーロッパ哲学に魅せられ、ジョルジュ・デュマ、エミール・ブレイエレオン・ブランシュヴィック(彼の指導教授)、アンリ・ベルクソンヨハン・ゴットリープ・フィヒテなどの哲学に関心を持った。最も影響を受けた書籍は、ベルクソンの『創造的進化』(L'Evolution creatrice)、フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』(Reden an die Deutsche Nation)であった。思想家の中ではフィヒテに最も共感していた。
アレクサンドレッタ問題とバアス運動の創設:1930年?1939年アンティオキアでの教員時代

1930年にシリアに戻り、1932年からアンティオキアで教員を勤めた。フランス植民地当局は彼がシリア内で生徒にヨーロッパ哲学やフランス革命などの話題について教えることを禁じた。フランス革命の理念である「自由、平等、博愛」について生徒に説くと、教室から追放された。1934年、学生クラブであるクラブ・デ・ボザールを創設し、フランス文化の拡散をはかった。フランス当局はクラブに難色を示したが、このことが本格的な政治活動のきっかけとなり、アラブ・ナショナリストへと傾いていった[4]

1933年8月、レバノン・カルナーイルで50人のアラブ・ナショナリストとともに民族行動同盟(LNA)を結成した。LNAはオスマン帝国時代のエリートの支配を受けない数少ないアラブ系政党の一つだった。LNAのメンバーは若く、西欧で教育を受けたものが多かった。


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