ザイン・グリフ
別名グレン・ミケルソン
生誕 (1957-10-04) 1957年10月4日(66歳)
出身地 ニュージーランド・オークランド
ジャンルニュー・ウェイヴ、シンセポップ、ポップ・ロック
職業ミュージシャン、ソングライター
担当楽器ボーカル、ベース
活動期間1972年 ? 現在
共同作業者ヒューマン・インスティンクト
ザイン・グリフ(Zaine Griff、1957年10月4日 - )は、ニュージーランド出身のミュージシャン、シンガーソングライター。 1957年、オークランドにおいて、デンマークからニュージーランドに移住してきた両親のもとで生まれる。グリフの「ザ・スカンジネイヴィアン」は、彼の父に捧げられた曲である[1]。 1972年、地元ニュージーランドのヒューマン・インスティンクト
来歴
1974年、ヒューマン・インスティンクトを脱退したグリフはロンドンに渡り、ベイビー・フェイスというバンドに加入する[注 1]。また、他アーティストのセッションにも参加するようになり、このうち、1976年にリリースされたジョニー・ウェイクリンの「イン・ザイール(In Zaire)」は全英シングルチャート最高4位を記録している[2][3][4]。
音楽活動のかたわら、グリフはリンゼイ・ケンプに師事し、スクールでダンスやパントマイムを学ぶ。同スクールでは、同じくケンプに師事していたケイト・ブッシュと交流を持つ。リンゼイ・ケンプ・カンパニーに在籍し、ジャン・ジュネの小説『花のノートルダム』を舞台化した『フラワーズ』公演に出演している。その後『フラワーズ』のオーストラリア公演が決定した際、グリフはロンドンに留まるためリンゼイ・ケンプ・カンパニーを脱退する[2][3]。
ロンドンに残ったグリフは、スクリーマーというバンドに加入し、2枚のシングルをリリース。また、キンクスの『ミスフィッツ(歪んだ映像)』(1978年)にベーシストとしてゲスト参加する[2][3]。
1977年にはザイン・グリフ・バンドを結成し、ライブ活動を中心に自身のソロキャリアをスタートさせる。1979年、トニー・ヴィスコンティのプロデュースのもとでレコーディングを開始し、1980年10月にソロデビューアルバム『灰とダイアモンド』がリリースされる。アルバムには、キーボードにハンス・ジマーが全面的に参加している。アルバムに先行してリリースされたファーストシングル「トゥナイト」は全英チャートにおいて最高54位、セカンドシングル「灰とダイアモンド」は最高68位を記録している[2][5]。
『灰とダイアモンド』のレコーディング中、グリフはヴィスコンティからデヴィッド・ボウイを紹介され[注 2]、ボウイの過去の楽曲「スペース・オディティ」、「愛しき反抗」、「デトロイトでのパニック」のリレコーディング・セッションにベーシストとして参加した。当初、このレコーディングは1979年末のケニー・エヴェレットのテレビ番組のために行われたものであったが、実際にオンエアされたのは「スペース・オディティ」のみだった(後に「スペース・オディティ」は1980年のシングル「アラバマ・ソング」のB面に、「デトロイトでのパニック」は1992年の『スケアリー・モンスターズ』のリイシュー盤や2002年の『ヒーザン』の限定盤に収録された)[3][6][7]。
1982年、ハンス・ジマーとの共同プロデュースによる2枚目のアルバム『フィギュアーズ』をリリース。収録曲のうち、リンゼイ・ケンプに捧げた「フラワーズ」ではケイト・ブッシュとのデュエットが実現する。また、高橋幸宏も本アルバムに参加している。同年の高橋のアルバム『WHAT, ME WORRY? ボク、大丈夫!!』には、グリフ作詞・作曲による「ディス・ストレンジ・オブセッション」を含め3曲のレコーディングに参加する。またこの頃、ロンドンにおいて自身によるアート作品の個展を開いている[3]。
1983年、ハンス・ジマーとウォーレン・カン(ウルトラヴォックス)によるプロジェクト「ヘルデン」において、グリフが6曲ボーカルを担当したアルバム『Spies』のレコーディングが行われたが、シングル「Holding On」がリリースされた後、アルバムはお蔵入りとなる。翌年、ゲイリー・ニューマンのアルバム『Berserker』にバックボーカルで参加[8]。