ザイン・アル=アービディーン・ベン・アリー
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ザイン・アル=アービディーン・ベン・アリー
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チュニジア共和国
第2代 大統領
任期1987年11月7日2011年1月14日
チュニジア共和国
第5代 首相
任期1987年10月2日 – 1987年11月7日
元首ハビーブ・ブルギーバ
アフリカ統一機構
第32代 議長
任期1994年6月13日1995年6月26日

出生 (1936-09-03) 1936年9月3日
仏保護領チュニジアスース県ハンマーム・スーサ(英語版)
死去 (2019-09-19) 2019年9月19日(83歳没)
サウジアラビア
政党立憲民主連合

ザイン・アル=アービディーン・ベン・アリー(アラビア語: ??? ???????? ?? ???‎ Zayn al-‘?bid?n bin ‘Al? 1936年9月3日 - 2019年9月19日)は、チュニジア共和国政治家軍人。大将。1987年より23年以上にわたって同国第2代大統領を務めたが、アラブの春の発端となるジャスミン革命が起きた2011年にサウジアラビアへ亡命[1]、政権は事実上崩壊した。日本語ではジン・アビディン・ベンアリの表記も見られる。1996年7月に来日[2][3]

2011年1月14日、ジャスミン革命の後、彼は妻のレイラ・ベン・アリ、そして3人の子供と共にサウジアラビアに逃亡した。チュニジアの暫定政府は、インターポールに国際逮捕状を発行するよう要請し、マネーロンダリング麻薬密売で彼を起訴した。チュニジア裁判所は、2011年 6月20日に、競売にかけられた現金と宝石の窃盗と不法所持の罪で、ベンアリと彼の妻に欠席裁判で35年の禁固刑を宣告。 2013年4月には、暴力と殺人を扇動したとして終身刑が、またスファックスでの抗議活動を暴力的に抑圧したとして軍事法廷で終身刑が言い渡された。彼はこれらの判決のいずれにも服役せず、その後、10年近く亡命した後、2019年9月19日にサウジアラビアのジッダで83歳で亡くなった。
概要

権威主義腐敗、そして極端なネオリベラル経済政策を敷いた一人としてチュニジアの独裁者として君臨し続けた一方、経済自由主義による安定的な成長投資促進[4]冷戦新冷戦にかけての西側諸国東側諸国の上手い足取り外交によって、少なくともチュニジアを発展に導いた功労者ではある。アリー退陣のきっかけになったジャスミン革命後の政権は不安定で、強権的なサイード政権の台頭[5]をもたらした。
経歴

ハンマーム・スーサ出身。男子6人、女子5人の大家族で育った。スーサの中学校で学び、上級生になると独立運動に加わった。ベン・アリーは、青年組織に入り、社会主義ドゥストゥール党の支部間の連絡係となった。数回逮捕され、刑務所に入れられ、尋問された[要出典]。

チュニジア独立後、国軍の中核メンバーとして召集され、フランスサン・シール陸軍士官学校に留学した。後にフランスのシャロン・ナ・マルヌ砲兵学校[要出典]、アメリカの情報・保安学校、防空学校でも学んだ[要出典]。

1958年からチュニジア軍参謀本部で勤務。最後の軍歴は、軍事保安局長だった。1974年、駐モロッコ駐在武官に任命される。1977年、帰国後、国防相官房長となった。同年12月、国家保安局長官を拝命。

1980年4月、駐ワルシャワ大使に任命され、帰国後の1984年1月、国家保安局長官再任ののち同年11月、国家安全保障問題担当国家書記を拝命。1986年4月28日、内務大臣に就任する[要出典]。

1986年6月、与党社会主義憲政党第12回大会において、政治局員に選出されると同時に、副書記長となった。1987年中盤、内閣改造の際、ハビーブ・ブルギーバは、ベン・アリーを首相(兼内務大臣)に指名し、事実上の後継者とした。また、社会主義ドゥストゥール党書記長ともなった[要出典]。
大統領

1987年11月7日、ハビーブ・ブルギーバは退任し[6]、ベン・アリーが大統領に就任した[7]。最初の演説においてベン・アリーは、国民に「信頼、安全、平穏な状況」での新体制への協力を呼びかけ、「祖国の独立、その進歩の維持」が全国民の責務であり、各人は「責任ある民主主義」の枠内において、「国民主権」を尊重して国家を統治しなければならないと表明した。この表明は、後に「11月7日宣言」と称され、ベン・アリーの改革の始まりとされた[要出典]。

市民の自由の拡大の方針を採り、ジハード・アル=イスラーム、イスラム方面運動等の過激派も含めて、政治犯全員を釈放した。また、国家保安事件裁判所を廃止、共和国検事総長のポストもなくすと容疑者の拘留期間は4日間に制限された。1988年7月、アラブ諸国初の拷問等禁止条約批准国となった[要出典]。

1988年、与党社会主義憲政党は立憲民主連合に改称され、社会の民主化、多元主義の尊重、法治国家の建設を宣言した。立憲民主連合第1回大会前、ベン・アリーは内閣改造を行い、前体制の閣僚数人を更迭した。党大会では、政府と党を分離することが決定された。

改革の次のステップとなったのは、政府、政党、社会団体、職業組織間の関係を規定する国民条約だった。ベン・アリーの言葉によれば[要出典]、国民条約は政府プログラムや何らかの連合体を創設するものでも、憲法や現行法を変えるものでもないとした。ベン・アリーは1989年4月、自分の正当性を主張するため、1991年の任期前に大統領選を行い、国民の審判を仰ぐことに決めた[要出典]。

大統領選挙において、ベン・アリーは国民の圧倒的多数の支持を得て大統領に再選された。同時に行われた議会選挙では、与党立憲民主連合は141議席を占めた。この選挙結果により、フランスの社会政治研究センターはベン・アリーを「今年の人」と呼び、「民主主義・人権」国際賞を授与した。以後、再選を重ね、2009年10月25日の大統領選挙では89.62%の票を獲得し5選された。

23年間もの長期政権を維持したが、2010年末頃より高い失業率や物価の高騰などを背景とした国民の不満がデモとなって噴き出し、2011年1月13日に次期大統領選挙への不出馬を、翌日には総選挙前倒しを表明し事態を収拾しようと試みたが収まらず、同日中にチュニジアを脱出。サウジアラビアに亡命し政権は崩壊[8]した。


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