公用語ペルシア語
アラビア語
首都サマルカンド
ブハラ
元首等
875年 - 892年ナスル1世
892年 - 907年イスマーイール・サーマーニー
914年 - 943年ナスル2世
サーマーン朝(サーマーンちょう、سامانيان Sāmāniyān, 873年 - 999年)は、中央アジア西南部のマー・ワラー・アンナフルとイラン東部のホラーサーンを支配したイラン系のイスラーム王朝。
首都はブハラ。中央アジア最古のイスラーム王朝の1つに数えられる[1]。ブハラ、サマルカンド、フェルガナ、チャーチュ(タシュケント)といったウズベキスタンに含まれる都市のほか、トルクメニスタンの北東部と南西部、アフガニスタン北部、イラン東部のホラーサーン地方を支配した[2]。
サーマーン家の君主はアッバース朝の権威のもとでの地方太守の格であるアミールの称号を名乗り、アッバース朝のカリフの宗主権のもとで支配を行ったが、イスラーム世界において独立王朝が自立の証とする事業を行い、アッバース朝の東部辺境で勢力を振るった。
サーマーン朝の時代に東西トルキスタン、およびこれらの地に居住するトルコ系遊牧民のイスラーム化が進行した[1]。
英主イスマーイール・サーマーニーはウズベキスタンとタジキスタンで民族の英雄として高い評価が与えられ、タジキスタンの通貨単位であるソモニは、サーマーニーに由来している[3]。このイスマーイールが事実上の王朝の創始者と見なされている[4]。 サーマーン朝を開いたサーマーン家は、マー・ワラー・アンナフルのイラン系土着領主(ディフカーン)の一族で、家名は8世紀前半にイスラームに改宗したサーマーン・フダーの名に由来する[5][6]。サーマーン・フダーはサーサーン朝時代の貴族の末裔であると考えられており[7]、またゾロアスター教の神官の家系の出身とも言われ[8][9]、ウマイヤ朝のホラーサーン総督アサド・イブン・アブドゥッラーによってイスラームに改宗したと伝えられている[10]。 サーマーンの息子アサドは、ホラーサーンから挙兵してアッバース朝のカリフ位を奪取したマアムーンに与し、マアムーンを後援したターヒル朝の始祖でホラーサーン総督ターヒル・イブン・フサインによってマー・ワラー・アンナフルの支配を委任されるようになった。819年ごろ、マアムーンはアサドの4人の息子たちであるヌーフ、アフマド、ヤフヤー、イルヤースのそれぞれにサマルカンド、フェルガナ、チャーチュ、ヘラートの各地域の支配権を正式に委任した[7]。827年には、アッバース朝統治下のアレクサンドリア総督にサーマーン家の人間が選ばれた[11]。
歴史
成立の背景