サード・ハリーリー
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レバノン政治家サアドッディーン・ラフィーク・アル=ハリーリー??? ????? ???? ???????

生年月日 (1970-04-18) 1970年4月18日(49歳)
出生地 サウジアラビア リヤド
出身校マクドノウビジネス・スクール
所属政党未来運動(3月14日の同盟)
親族ラフィーク・ハリーリー
バヒーヤ・ハリーリー叔母
第64代 レバノン共和国首相
在任期間2009年11月9日 - 2011年6月13日
大統領ミシェル・スライマーン
第67代 レバノン共和国首相
在任期間2016年12月18日 -
大統領ミシェル・アウン
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サアドッディーン・ラフィーク・アル=ハリーリー(アラビア語: ??? ????? ???? ???????‎、: Saad ed Deen Rafiq al-Hariri、1970年4月18日 - )は、レバノン政治家。同国首相を2回務めた。

連立与党「3月14日同盟(英語版)」の筆頭「未来運動」の党首。日本のメディアでは「サード・ハリリ」と表記する場合がある。日本国外務省は「サアド・ハリーリ[1]」と、一部の中東専門家は「サアド・ハリーリー[2]」と表記している。ラフィーク・ハリーリー元首相は実の父親。
略歴

1970年に、サウジアラビアリヤド実業家ラフィーク・ハリーリーとイラク人の妻ニダール・アル=バスターニーとの間で次男として出生。同地で育ち、サウジアラビア国籍も有している[3]2005年、未来運動を率いていた父親の暗殺に伴って党首を引き継いだ。2009年の総選挙で勝利すると11月9日に首相となり、12月10日に内閣が正式に発足した。しかし、2011年1月に親シリアヒズボラ系を始めとする11名の閣僚が辞任したことが引き金となり、政権が崩れた[1]。この出来事から6か月後、ヒズボラ系のナジーブ・ミーカーティーが後任の首相として内閣を組織した[1]

2014年5月25日ミシェル・スライマーンが任期満了で大統領を退任したが後継が決まらず、新大統領の選出をめぐりシーア派の3月8日同盟(英語版)とスンニ派の3月14日同盟(英語版)が別々の候補を出して対立した[4]。そのため、2016年10月20日に3月14日同盟の代表格だったハリーリーが次期首相への就任と引き換えに、3月8日同盟が擁立した候補のミシェル・アウンの支持に転じるまで、大統領の空白期間が2年5ヶ月もの間続くこととなった[4]。この協力への見返りとしてアウンより組閣を要請されたが、スンニ派内では変節への反発が強く、各派との調整に手間取ったため、12月になってようやく首相に再登板した[5][4]。内閣にはスンニ派やヒズボラも含むシーア派だけでなく、キリスト教マロン派などが参加しており、国内の安定が優先されていた[5]

2017年11月4日に衛星放送アル=アラビーヤを通じて、「私の命を狙う陰謀を感じる」と述べ、訪問先のサウジアラビアにおいて突如辞意を表明した[6][7]。この中で、自身の父親が暗殺される前と似た状況にあり[6]イランやヒズボラが対立を激化させているとして非難した[8]。演説の内容は、閣内のヒズボラとの対立を浮き彫りにしたと見られている[9]。これに関して、サウジアラビアのテレビ局は、数日前にベイルートでの暗殺計画が阻止されたと報道した[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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