この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "サン=ナゼール" ロワール=アトランティック県
Saint-Nazaire
行政
国 フランス
地域圏 (Region)ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏
県 (departement)ロワール=アトランティック県
郡 (arrondissement)サン・ナゼール郡
小郡 (canton)3
INSEEコード44184
郵便番号44600
市長(任期)ジョエル=ギ・バトー(Joel-Guy Batteux、フランス社会党)
(2008年 - 2014年)
人口動態
人口67097人
(2011年)
人口密度1 434人/km2
住民の呼称Nazairiens
地理
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯47度16分50秒 西経2度12分31秒 / 北緯47.280556度 西経2.208612度 / 47.280556; -2.208612座標: 北緯47度16分50秒 西経2度12分31秒 / 北緯47.280556度 西経2.208612度 / 47.280556; -2.208612
標高平均:6m
最低:0m
最高:47 m
面積46.79km2 (4 679ha)
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}Saint-Nazaire
公式サイト ⇒www.mairie-saintnazaire.fr
テンプレートを表示
サン=ナゼール(フランス語: Saint-Nazaire、ブルトン語: Sant-Nazer)は、フランス、ロワール=アトランティック県のコミューン。ロワール川三角江の右岸に位置し、ビスケー湾から大西洋に直接乗り出せるという好位置のため、漁業と造船業の長い伝統が培われてきた。街の北にはラ・ブリエールと呼ばれるフランス第2の湿地が広がっている。
歴史
古代から第二次世界大戦までサン=ナゼールに残るドルメン旧駅舎サン=ナゼール商工会のメダル。旗に刻まれた銘文は港湾都市としてのモットー「APERIT ET NEMO CLAVDIT」(開くことができ、誰も閉じない。)オスカル・ロティ製作、1893年
サン=ナゼールは、ガリア人が建設した都市、コルビロ (Corbilo) が始まりとされている。コルビロの名は、古代ギリシャの航海者ピュテアスの記録にも触れられている。ディシニャックの巨石記念物、三つ石のドルメンなど遺跡も豊富で、早くから人が定住したと考えられている。
中世よりブルターニュ公国に属し、ブルターニュ継承戦争では戦場となった。
18世紀、エギュイヨン公によって、海側からの攻撃を想定し要塞が建設された。
近代に入ってからもサン=ナゼールは港湾都市として発展し続けた。1930年代、フランスの豪華客船SSノルマンディーの建設のため、新たなドックの建設が必要となった。サン=ナゼールはその造船用ドックの建設地に選ばれた。
第二次世界大戦「エアリアル作戦」および「サン=ナゼール強襲」も参照
やがてフランスは第二次世界大戦に突入、しかしドイツ軍の侵攻により英仏軍は敗北、1940年6月17日、サン=ナゼール港はイギリス軍将兵で溢れかえった。彼らは進軍するドイツ軍から逃れ、英本土へ撤退しようとしたのだった。やがて客船ランカストリアが差し向けられ、概算して9,000人が乗船したが、船はドイツ軍の爆撃で沈没し、およそ4,000人が犠牲となった。これはイギリス海運史における屈指の惨事となった。ウィンストン・チャーチルはこの惨事をマスコミに対して隠し通し、この事件は歴史からほとんど忘れ去られている。まもなくフランスがドイツに降伏すると、サン=ナゼール港はすぐドイツ海軍の重要な根拠地となり、同時に連合国側の作戦の標的ともなった。ドイツ側は占領後わずかな間に、Uボートが多数収容可能なUボート・ブンカーを建設した。その9mの厚さのコンクリート製天井は、当時使用されたどんな航空爆弾にもほとんどもちこたえられる力があった。そのあまりにも頑強な構造ゆえ、廃墟と化しながらも現在もなおこの街に残っている。1942年当時のサン=ナゼール港
客船ノルマンディーのための乾ドックは、当時この種のものとしては西欧最大であった。ドイツ海軍最大のビスマルク級戦艦が収容できる、大西洋側唯一の港であった。これが、第二次世界大戦中、枢軸国側・連合国側ともに戦略上重要港とみなすゆえんであった。
1942年3月28日、ブリティッシュ・コマンドスとイギリス海軍は将兵622名を投入したチャリオット作戦を発動。サン=ナゼールの造船所に対する攻撃に乗りだした。イギリス海軍はタウン級駆逐艦「キャンベルタウン」(旧米海軍ウィックス級駆逐艦「DD-131 ブキャナン」)の艦内に爆薬を満載し、護衛部隊と共に突入させたうえで自爆させることにより、港のゲートと戦時中ドイツ当局によって閉鎖されていた乾ドック破壊に成功した。
Uボートはこの街を拠点として大西洋で大規模な通商破壊戦を展開、そのためにサン=ナゼールは連合国側空軍の定期的な標的とされた。