サン=クルー
行政
国 フランス
地域圏 (Region)イル・ド・フランス地域圏
県 (departement)オー=ド=セーヌ県
郡 (arrondissement)ブローニュ=ビヤンクール郡
小郡 (canton)小郡庁所在地
INSEEコード92064
郵便番号92500
市長(任期)エリック・ベルドーティ
(2008年-2014年)
自治体間連合 (fr
サン=クルー(Saint-Cloud)は、フランス、イル=ド=フランス地域圏オー=ド=セーヌ県のコミューン。
セーヌ川をはさんで右岸のブローニュの森と向かい合っており、川を見下ろす傾斜の上にある。サン=クルー公園は古くから知られる、パリ郊外有数の散歩道で、夏季の日曜日に開催されるサン=クルー祭が人気を集める。数世紀にわたり、ヴェルサイユと同様にフランス史で重要な町であり続けた。
グループ・ダッソー本社が置かれており、また、現在もサン=クルー住民の一人当たりの平均資産額は高く、2006年の全世帯平均所得税は33,770ユーロと、国内第23位であった。 パリのノートルダム大聖堂の西約9.9マイル地点にあり、東部はブローニュ=ビヤンクールと、北東部はブローニュの森があるパリ16区と、南部はセーヴルと接している。丘の上のコミューンであるため、あちこちに階段やエスカレーターがある。 普仏戦争中であったパリ包囲戦でフランス軍が敗退し、休戦協定が結ばれた2日後の1871年1月28日、サン=クルーは大火にみまわれた。19世紀末にかけ再建されたサン=クルーは、以前より増して住宅都市の色彩が濃くなった。都市化が進んだのはセーヌ河岸の一画のみに凝縮され、多くの作家や芸術家がサン=クルーを選んで移り住むようになった。 5世紀、キリスト教の聖職者、聖クロドアルド(fr 1789年、フランス革命後には聖人の名を冠している事が問題視され、短期間ポン=ラ=モンターニュ(Pont-la-Montagne)と改名された[1]。 サン=クルーは、ガロ=ローマ時代に既にあった。野蛮なフランク人たちは、ラテン語でNovientosという名の定住地を数多く作り、その1つであった(Novientosとは新しい、という意味)。 サン=クルーはノルマン人侵攻時にも知られ、百年戦争中の1411年にはブルゴーニュ派とアルマニャック派の抗争で焼け落ちた。 1588年のカトリック同盟軍のパリ包囲戦後、サン=クルー城へ移り住んだアンリ3世は、1589年に城内でジャック・クレマンに暗殺された。 パリ近郊のサン=クルー城と庭園は、1658年にオルレアン公フィリップ1世がつくった。1785年、ルイ16世は王妃マリー・アントワネットに頼まれて城を手に入れた。さらに、その国王一家と対立したオルレアン公ルイ・フィリップ2世もこの城で生まれ、フランス革命から19世紀を通じて、城はフランス史の重要な舞台となった。
地理
都市計画
由来
歴史ブリュメール18日のクーデタ普仏戦争直後、廃墟と化した城