サン=クルー
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サン=クルー


行政
フランス
地域圏 (Region)イル・ド・フランス地域圏
(departement)オー=ド=セーヌ県
(arrondissement)ブローニュ=ビヤンクール郡
小郡 (canton)小郡庁所在地
INSEEコード92064
郵便番号92500
市長任期)エリック・ベルドーティ
2008年-2014年
自治体間連合 (fr)メトロポール・デュ・グラン・パリ
人口動態
人口29 542人
2007年
人口密度3 298人/km2
地理
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯48度50分38秒 東経2度13分09秒 / 北緯48.843838度 東経2.219082度 / 48.843838; 2.219082座標: 北緯48度50分38秒 東経2度13分09秒 / 北緯48.843838度 東経2.219082度 / 48.843838; 2.219082
標高最低:28 m
最高:164 m
面積7 52km2 (752ha)
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サン=クルー(Saint-Cloud)は、フランスイル=ド=フランス地域圏オー=ド=セーヌ県コミューン

セーヌ川をはさんで右岸のブローニュの森と向かい合っており、川を見下ろす傾斜の上にある。サン=クルー公園は古くから知られる、パリ郊外有数の散歩道で、夏季の日曜日に開催されるサン=クルー祭が人気を集める。数世紀にわたり、ヴェルサイユと同様にフランス史で重要な町であり続けた。

グループ・ダッソー本社が置かれており、また、現在もサン=クルー住民の一人当たりの平均資産額は高く、2006年の全世帯平均所得税は33,770ユーロと、国内第23位であった。
地理

パリのノートルダム大聖堂の西約9.9マイル地点にあり、東部はブローニュ=ビヤンクールと、北東部はブローニュの森があるパリ16区と、南部はセーヴルと接している。丘の上のコミューンであるため、あちこちに階段やエスカレーターがある。
都市計画

普仏戦争中であったパリ包囲戦でフランス軍が敗退し、休戦協定が結ばれた2日後の1871年1月28日、サン=クルーは大火にみまわれた。19世紀末にかけ再建されたサン=クルーは、以前より増して住宅都市の色彩が濃くなった。都市化が進んだのはセーヌ河岸の一画のみに凝縮され、多くの作家や芸術家がサン=クルーを選んで移り住むようになった。
由来

5世紀、キリスト教の聖職者、聖クロドアルド(frクローヴィス1世の孫、クロドミル1世の子)は、フランク王族の血を引いた王子であった。彼は伯父が支配する宮廷の権力抗争から逃れようと、漁夫たちが暮らすセーヌ河岸のNovigentumへ移住した。彼はこの地に、トゥールのマルティヌスを祀る修道院を建て、560年に没した。死後に彼の墓で奇跡が起きたとされ、7世紀に列聖された。小さな村はSanctus Clodoaldusと名づけられ、Saint-Floud、Saint-Cloot、最終的にサン=クルーとなった。聖クロドアルドは自分の荘園の権利をパリ司教に残しており、1839年までサン=クルー公爵はフランス貴族の称号であった。

1789年、フランス革命後には聖人の名を冠している事が問題視され、短期間ポン=ラ=モンターニュ(Pont-la-Montagne)と改名された[1]
歴史ブリュメール18日のクーデタ普仏戦争直後、廃墟と化した城

サン=クルーは、ガロ=ローマ時代に既にあった。野蛮なフランク人たちは、ラテン語でNovientosという名の定住地を数多く作り、その1つであった(Novientosとは新しい、という意味)。

サン=クルーはノルマン人侵攻時にも知られ、百年戦争中の1411年にはブルゴーニュ派アルマニャック派の抗争で焼け落ちた。

1588年のカトリック同盟軍のパリ包囲戦後、サン=クルー城へ移り住んだアンリ3世は、1589年に城内でジャック・クレマンに暗殺された。

パリ近郊のサン=クルー城と庭園は、1658年にオルレアン公フィリップ1世がつくった。1785年、ルイ16世は王妃マリー・アントワネットに頼まれて城を手に入れた。さらに、その国王一家と対立したオルレアン公ルイ・フィリップ2世もこの城で生まれ、フランス革命から19世紀を通じて、城はフランス史の重要な舞台となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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