この記事には複数の問題があります。改善
やノートページでの議論にご協力ください。 サン・マルコ美術館
Museo nazionale di San Marco
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} フィレンツェ内の位置フィレンツェの地図を表示サン・マルコ美術館 (イタリア)イタリアの地図を表示
施設情報
専門分野美術館、史跡
開館1869年
所在地イタリア・フィレンツェPiazza San Marco 3, 50121
外部リンク ⇒Official website
プロジェクト:GLAM
テンプレートを表示
イタリアのフィレンツェのサン・マルコ広場に位置するサン・マルコ国立美術館(サンマルコこくりつびじゅつかん)は、元来ドメニコ会修道院であり、その一部を美術館として公開し、修道院に所縁の深い美術品を展示している。
サン・マルコ美術館は、建築家ミケロッツォの傑作であり、フィレンツェの最も重要な建築物の一つに数えられる。館内には、修道士として当修道院に居住した画家フラ・アンジェリコが残した最も重要な板絵およびフレスコ画が保管されている。フラ・アンジェリコの他にもフラ・バルトロメオ、ドメニコ・ギルランダイオ、アレッソ・バルドヴィネッティ、ヤコポ・ヴィニャーリ、ベルナルディーノ・ポッチェッティ、ジョヴァンニ・アントニオ・ソリアーニ等の画家の作品を見学することができる。さらに、フィレンツェが首都となった一時期(1865年-1871年)に再開発と称して取り壊された建物の遺構も保管されている。
サン・マルコ修道院は2014年までドメニコ会の本拠地であったため、修道士たちは建物西翼に居住していたが、2014年以降に同じくドメニコ会であるサンタ・マリア・ノヴェッラ修道院へと移った。 修道院の建設は1300年以前に遡り、元来シルヴェストリーニ信徒会
歴史
シルヴェストリーニ信徒会
1418年、修道院規則の退廃を非難された修道士たちは、修道院からの撤退を勧告されたものの、教皇エウゲニウス4世の直接的な仲介とバーゼル公会議の取り決めの結果、修道院は1437年に正式にドメニコ会修道士の所有となった。コジモ・デ・メディチの仲介もまた修道院の歴史にとって決定的な意味をもつものであった。コジモは1420年に既にフランチェスコ会のボスコ・アイ・フラーティ修道院を援助したことがあった。1434年、フィレンツェ追放から帰還したコジモはフィレンツェにおけるドメニコ会教団の定着を図る意志を明確にした。シルヴェストリーニ信徒会はサン・ジョルジョ・アッラ・コスタ修道院へと移ると、ドメニコ会は修道院を所有するようになったものの、建物は朽ち果てており、修道士たちは2年間に渡り湿気た独房で暮らすことを余儀なくされた。 こうして、1437年、コジモは、メディチ家贔屓の建築家ミケロッツォに当時最新のルネサンス様式で修道院を再建するよう依頼した。1438年に着工された建設は5年の歳月を経て、1443年の公現祭(1月6日)の夜には教皇エウゲニウス4世
メディチ家による修道院再建
コジモは、ヴァザーリが芸術家列伝において証言している通り、4万フィオリーニ以上もの巨額な財産を修道院再建に支出した。建築家ミケロッツォは1439年から1444年にかけて仕事をした。建築様式は簡素でありながら優美で機能性を備えたものであった。壁面は白の漆喰で塗られ、空間は二つの回廊付き中庭(サンタントニーノの回廊とサン・ドメニコの回廊)に分けられた。1階部分には司教座聖堂賛辞会議室、二つの食堂、客人宿泊室が設けられた。2階には修道士たちの独房が造営された。これらの独房は、各々独立した小部屋であるが一つの大きな木組みの天井で結合している。北面に位置する回廊、司教座聖堂賛辞会議室、共同寝室は、1440年-1441年に完成した。他方、南面に位置し広場に面する共同寝室は1442年に完成した。その他の建設工事は1452年まで継続された。
修道院のなかで最も卓越した空間は2階の図書室である。穹窿天井をもち、二列に並ぶ列柱により三つの分けられた(三身廊)開放感あふれる空間である。多数の窓から自然光が入り、内部を明るく照らしていることから、修道士たちが行った研究や読書、手稿本の写生を助けたことであろう。この場所で、アーニョロ・ポリツィアーノやピコ・デッラ・ミランドラのような人文主義者たちは、メディチ家が蒐集したギリシャ語やラテン語で書かれた貴重な図書を研究したのである。
サヴォナローラの時代フラ・バルトロメオ作「ジローラモ・サヴォナローラの肖像」
フラ・アンジェリコやアントニーノ・ピエロッツォ、フラ・バルトロメオのほかに、この修道院には1489年からジローラモ・サヴォナローラが暮らした。修道院長となったのち、フィレンツェ住民の華美で淫らな身だしなみを激しく非難するようになり、ボルジャ家出身の教皇アレクサンデル6世率いる教皇庁と対立し、ついに1498年にはシニョリーア広場にて火刑に処された。 修道院はナポレオンにより1808年に接収され、ナポレオンの陥落後修道士に戻されたものの、1866年には大部分が国有財産として接収された。ドメニコ会修道士の所有物として残ったのは教会とサン・ドメニコの回廊に面する空間と宗教学者アッリーゴ・レヴァスティ
修道院の民間化、そして美術館へ
国立文化財となった修道院は、改修工事を経て、建物の大部分が1869年に美術館として一般に公開されるようになった。この時期にフラ・アンジェリコによるフレスコ画は画家ガエターノ・ビアンキにより修復された。19世紀に行われた取り壊しに伴う建築の遺構が保管を目的として1906年に館内に移入された。1922年にはジョヴァンニ・ポッジがフラ・アンジェリコの作品の大部分を美術館に持ち込むよう尽力し、ウフィッツィ美術館やアカデミア美術館に由来するフラ・アンジェリコの作品がサン・マルコ美術館へと移管されたことにより、サン・マルコ美術館は今日に至るまでフラ・アンジェリコの最も重要な絵画コレクションを形成している。