サン・バルトロ
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サン・バルトロ中心部の遺構配置図サン・バルトロ「ピントゥラス」下層1号神殿西壁に描かれた図像5のペニスを貫通させて、放血儀礼をおこなう人物。猟師の姿をした王、またはフン・アフプーを描いているとされる。この人物の南側と北側には怪鳥のとまった生命樹が描かれ、すぐ北隣には七面鳥の供物が描かれている。

サン・バルトロ[1](San Bartolo)は、グアテマラ北部のペテン低地北部に立地する先古典期後期に属するマヤ文明の祭祀センターである。ティカルの北東およそ80kmほどの場所に位置する。「ラス・ピントゥラス」(絵画の神殿)下層1号神殿の先古典期後期の素晴らしい壁画によって、その名を知られるようになった。

ピーボディ考古学・民族学博物館 のウィリアム・サターノの指揮する調査隊によって2001年にピラミッドの基礎部分の建物が調査されて紹介された。2003年3月に発掘調査が再開され、壁画は放射性炭素年代測定によって紀元前100年のものでマヤ文明の壁画としては現時点で最古のものであることが判明している。壁画の記録撮影は、壁面を直接スキャンする一方、はげ落ちた破片についても撮影し、パソコン上で画像をつなげていく手法が用いられた。2003年に北壁の壁画の調査及び記録、2004年に西壁の壁画の調査及び記録が行われ、西壁は最初の生命樹の部分で42枚の画像、全体で350枚の画像がつなぎあわされて全貌が明らかとなった。ヘイザー・ハースト(Heather Hurst)によって詳細にスケッチされ、見事な復元図が作成されている。
遺構とその分布

サン・バルトロは、2002年に行われた踏査で、中心部には、100基以上の建造物が「ベンタナス」(窓のある神殿)と「ピントゥラス」と呼ばれるおおきくふたつのグループを形成しながら1平方キロ以上にわたってひろがっていることが明らかになった。「ラス・ベンタナス」の北東隣に500基の建物を伴う「ハバリ(Jabali、「野生の熊」)」複合がある。一方で、サン・バルトロの居住区は、「ラス・ベンタナス」を中心にしつつも、雨期に湿地となる場所ぎりぎりまで散在的に分布していることも明らかになった。

2004年にヨシュア・クオーカの担当した調査によって、ラス・ベンタナス神殿の北方150mの位置にある構築物86号の近くで石器を加工した後に生じる剥片が集中的に廃棄されている場所があることが分かり、石器工房があったことが確認された[2]
「ハバリ」グループ(複合)

ババリ・グループは、ラス・ベンタナス神殿の西方470mに位置し、2003年NASAの衛星写真によって、3つ組の建築グループとして存在していることが確認された。

ハバリ・グループのピラミッドは、東側に階段をもち、基壇の上方には、中庭を囲んだ3つの建物が築かれていた。これら3つの建物のうち、最大なものは西側に位置する構築物Aであって、東西方向に主軸をもち、中央のみならず側面にも階段が設けられていた。本来先古典期の建物であるが古典期にも何度か改造が行われている[3]

ハバリ・グループの建造物の中庭には、儀礼に用いられたと推察される中央をへこませた一対の漆喰壁によってつくられた埋納遺構が確認された[3]
「ベンタナス」グループ(複合)

「ベンタナス」は、グループの北側にある高さ26mほどの神殿「ラス・ベンタナス」の頂点部分の構造が複数の窓状の構造をなしていることから名づけられた。「ラス・ベンタナス」主神殿の南側には、中央プラザがあり、向かって右手に球戯場、左手にティグリージョ(Tigrillo、「オセロット」)「宮殿」複合という建造物群がある。中央プラザには、数多くの石碑や石彫が建てられている。南へ向かって提道が伸びている。

「ラス・ベンタナス」神殿の基壇を発掘したところ、紀元前800年ごろに最初の建物が建てられてから、少なくとも8層覆いかぶせるようにして神殿がたてられた。そのように覆いかぶせるようにして造られた神殿の基壇のうち、一層はフリントの塊ばかりが充填されて造られていた。

「ベンタナス」グループには、この都市の住民の居住区に使われた建物群が中央プラザと提道に沿って集中していた。

「ラス・ベンタナス」神殿は、多孔質の石材を用い、表面を分厚い漆喰で覆っている。二番目に新しい時期の建物には、すでに壊されてはいたもののスタッコ人頭が神殿の基壇壁面にあることが確認され、ワシャクトゥンのEVII下層神殿などに似た先古典期後期独特の構造であることがうかがわれた[4]

盗掘坑が東西方向、南北方向に開けられていたことを利用して、充填物を取り除くと断面から建物がすくなくとも二時期にわたって築かれたことを確認することができた。「ラス・ベンタナス」の基壇の四隅部分は隅石がおかれていた。

「ラス・ベンタナス」神殿には対になる階段があり、サターノらは、神殿の両脇の階段が検出されているのであって、未検出の正面の階段が存在すると考える[5]
ティグリージョ「宮殿」複合

ティグリージョ「宮殿」複合は、中央プラザの西側、「ラス・ベンタナス」神殿の南西に位置する。多くの部屋をもつ長方形の建物が平行に並んだ構造が特徴で、高さは、8m以上に及ぶ。「ベンタナス」グループ全体の中央プラザに対し、独自の中庭である「上方プラザ」をもつ。表面採集された遺物から、建物の年代は先古典期に属することがわかっている。

2004年に、アストリッド・ランガルデイアが試掘坑で神殿の主となる階段の存在を検出したことで、建物の主軸方位が東西方向であることが確定した[3]

平行して建てられているティグリージョ「宮殿」複合の階段の上の部分は、構造的にお互いの建物の正面中央でつながる構造になっており、建物は3時期にわたって使用された。ティグリージョ「宮殿」複合の中庭である「上方プラザ」と中央プラザは、それぞれの建物にある二つの出入り口とそれをつなぐ通路によってつながっていて、「上方プラザ」と中央プラザの間の眺望をみわたすことができるようになっていた[6]

ティグリージョ「宮殿」複合が放棄されたあとに、中央プラザ寄りの東側正面に埋葬がつくられた。被葬者は、「宮殿」複合出入り口の通路に対して垂直になるよう、南北方向にうつぶせの伸展葬で確認された。頭は北側に向けた若い男性と思われ、32個の貝でできたネックレスを着け、右肩と左側のももの近くにそれぞれ1点づつひっくり返った状態の土器が確認された[3]
「ピントゥラス」グループ(複合)

「ピントゥラス」グループは、「ラス・ベンタナス」から500mほど東側に位置し、地表から高さ25m以上に達する「ラス・ピントゥラス」と名付けられた神殿の周りを囲んでいる建築グループである。グループの名称の由来は、神殿の基壇部分から紀元前100年ごろの下層1号(「ピントゥラス」下層1号)神殿の壁画が発見されたことに由来する。この神殿は紀元前600年ころにはじめて建てられて以来、6期にわたって元の神殿を被せるように建て替えが行われた。最も新しい建物は、紀元前50年から紀元1世紀ごろであるがそれ以前に、5段階にわたってピラミッドが建てられ、新しい順に下層U号?下層Y号とされ、下層U号と下層V号については、年代サンプルのデータがないため時期不明であるが、下層U号が下層1号と同時か古く、紀元前300年から同200年と考えられる下層W号よりも下層V号が新しいことから紀元前300年から同100年の間と推察されている。


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