サン・バルテルミの虐殺
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サン・バルテルミの虐殺 フランソワ・デュボワ(1529-1584), ローザンヌ美術館

サン・バルテルミの虐殺(サン・バルテルミのぎゃくさつ フランス語:Massacre de la Saint-Barthelemy)は、1572年8月24日フランスカトリックプロテスタントを大量虐殺した事件である。

聖バルテルミーの虐殺あるいは(英語表記から)聖バーソロミューの虐殺(St. Bartholomew's Day Massacre)とも表記される。
概要

宗教改革ジャン・カルヴァンの思想がフランスでも勢力を持ち、プロテスタントはカトリック側から「ユグノー」と呼ばれた。1562年以降、フランスはカトリックとユグノーとの内乱状態(ユグノー戦争)となっていた。

国王シャルル9世の母后カトリーヌ・ド・メディシスの提案により、ユグノーとカトリックとの融和を図るため、ユグノーの指導者であるナバラアンリ(有力な王位継承権を持つブルボン家当主)と王妹マルグリット(国王シャルル9世の妹)が結婚することになった。1572年8月17日に結婚式が行われ、ユグノーの中心人物であるコリニー提督はじめ多くのユグノー貴族が結婚を祝うためパリに集まっていた。8月22日にコリニーが狙撃されて負傷する事件が起こると、ユグノーは憤り、国王に真相究明を求めた[1]

2日後、サン・バルテルミの祝日である8月24日、カトリック強硬派のギーズ公の兵がコリニー提督を暗殺し、シャルル9世の命令により宮廷のユグノー貴族多数が殺害された。だが、事態は宮廷の統制を超えて暴発し[2]、市内でもプロテスタント市民が襲撃され、虐殺は地方にも広まり、犠牲者の数は約1万?3万人とされる。後述#犠牲者数節を参照

ナバラ王アンリは捕らえられ、カトリックへの改宗を強制された。だが、内乱はこれでは終わらず、ユグノーは暴君放伐論を唱えてより強硬に抵抗するようになり[3]、穏健派カトリックも独自勢力であるポリティーク派を形成するようになった。

2年後にシャルル9世が死去し、1576年にはナバラ王アンリが逃走してプロテスタントに再改宗した[4]。その後、内乱は新国王アンリ3世(シャルル9世の弟)、カトリック同盟のギーズ公アンリそしてユグノー陣営のナバラ王アンリの三つ巴のいわゆる「三アンリの戦い」と呼ばれる泥沼状態に陥る。ギーズ公とアンリ3世が相次いで暗殺された後の1589年にナバラ王アンリが王位を継承する(アンリ4世)。この宗教戦争は1598年にアンリ4世がプロテスタントに一定の制限はあるが信仰の自由を容認したナントの勅令を発するまで続いた[5][6]
背景
フランスの改革派、ユグノーカトリーヌ・ド・メディシス
アンリ2世の妃で、メディチ家出身。夫の死後は相次いで息子を即位させ、実権を握った詳細は「ユグノー」を参照

1517年マルティン・ルターが発表した『95ヶ条の論題』を契機に神聖ローマ帝国領域(現在のドイツ)で宗教改革運動が始まった。帝国はプロテスタント諸侯とカトリック諸侯とに分裂して対立した。抗争はシュマルカルデン戦争1546年?1547年)に勝利した皇帝カール5世のカトリック陣営優勢に終わるかに見られた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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