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出典検索?: "サン・ジョルジェ城"
サン・ジョルジェ城 (サン・ジョルジェじょう、Castelo de Sao Jorge)は、ポルトガル・リスボン中央部にある城[1]。市内の高台にそびえ、観光客が訪れる。 丘の上の最初の要塞化は紀元前2世紀頃であるということだけ知られているが、考古学調査から、少なくとも紀元前6世紀までには、フェニキア人・古代ギリシャ人・カルタゴ人の影響を受け、土着のケルト人とイベリア人が占領していたとわかった。のち、古代ローマ帝国、スエビ族、西ゴート王国、ムーア人と支配者が変わった。 レコンキスタが南下してくると、城とリスボンの町はポルトゥカーレ伯アフォンソ・エンリケス(のちの初代ポルトガル王アフォンソ1世)により、ムーア人から取り戻された。彼には第2回十字軍に参加した北ヨーロッパ貴族の援助があった。1147年のリスボン攻防戦では、有名な伝説によると、マルティン・モニスという騎士が城の扉の一つが開くと、閉めさせないために己の体を盾にして立ちはだかり、仲間の騎士たちを入城させて自身は絶命したという[2]。 城は、12世紀後半のムーア人侵入を持ちこたえた。リスボンは王国の首都として拡大し、1255年に王宮となった(アルカソヴァ城Alcacovaの名前で呼ばれた)。1300年代にはディニス1世が大改修を行った。 1373年から1375年にかけ、フェルナンド1世が新たにリスボンを取り巻く城壁をつくらせた[3](セルカ・ノヴァCerca NovaまたはフェルナンディーナFernandinaという)。一部は古いムーア人の城壁と取り替えられ、かつて防御のない部分だったところを取り囲むように設計された。77の塔、周辺は5,400メートルで、わずか2年で建てられた。14世紀後半には、城とリスボンはカスティーリャ軍の侵攻に立ち向かった。 アヴィス朝の開祖ジョアン1世は、城を聖ジョルジェへ捧げた。彼の王妃フィリパはイングランド王女であり、どちらの国でも龍と戦う聖人ジョルジェ(英語では聖ジョージ)は人気があった。 14世紀から16世紀初頭にかけ、塔の一つウリッセス塔またはアルバッラ塔は、王国の公文書館となった。このために現在の国立ポルトガル公文書館は未だトーレ・ド・トンボ(Torre do Tombo)すなわち公文書塔と呼ばれている。年代記作者フェルナォン・ロペスとダミアォン・デ・ゴイースはここで働いていた。 王宮として、城はインド航路開拓者ヴァスコ・ダ・ガマを歓待するのに使われた。城では1502年に劇作家ジル・ヴィセンテの『モノローゴ・ド・ヴァクエイロ』がマヌエル1世の嫡子ジョアン(のちのジョアン3世)の誕生を祝い上演された。 16世紀初頭、マヌエル1世はテージョ川沿いに新しい王宮リベイラ宮殿
歴史
発祥
中世16世紀初頭の城とリスボンの眺め。2つの塔は王宮の一部。ドゥアルテ・ガルヴァオン著『アフォンソ・エンリケス年代記』より城壁と塔
近世