サンマルコス_(テキサス州)
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サンマルコス
San Marcos

ヘイズ郡庁舎(2010年)
愛称: サンマーベラス
San Marvelous
ヘイズ郡内の位置
アメリカ合衆国
テキサス州
ヘイズ郡コールドウェル郡グアダルーペ郡
政府
 ? 種別市政委員会・マネジャー
 ? 市長ダニエル・ゲレーロ[1]
 ? 市マネジャージム・ヌーズ
面積
 ? 合計18.2 mi2 (47.4 km2)
 ? 陸地18.2 mi2 (47.2 km2)
 ? 水域0.1 mi2 (0.3 km2)
標高617 ft (188 m)
人口(2020年)[2]
 ? 合計67,553人
等時帯UTC-6 (中部標準時)
 ? 夏時間UTC-5 (中部夏時間)
郵便番号78666-78667
市外局番512
FIPS code48-65600
GNIS feature ID1375971[3]
ウェブサイト ⇒ci.san-marcos.tx.us

サンマルコス(: San Marcos)は、アメリカ合衆国テキサス州中央部、ヘイズ郡コールドウェル郡グアダルーペ郡に跨る都市。ヘイズ郡の郡庁所在地である[4]。人口は6万7553人(2020年)。オースティンラウンドロック都市圏に属し、オースティンからサンアントニオに向かう州間高速道路35号線回廊に沿っている。

サンマルコス川の両岸に町が造られており、この地域は北半球でも最古の継続して人が住んでいる場所と見なされている[5]。市内にはテキサス州立大学とアクアリーナ・センターがある[6]
歴史

考古学調査によってサンマルコス川ではクローヴィス文化に関わる遺物が見つかっており、1万年以上にわたって人類がこの川沿いに住んだことを示唆している。この川の水源は冷たく清澄なサンマルコス泉であり、エドワーズ帯水層から水が供給されている。この泉群は州内でも3番目に大きな泉の群れである。歴史上でも川が涸れたことはない。

1689年、スペイン人アロンソ・デ・レオンがメキシコから遠征隊を率いてきてテキサスを探検し、地域に伝道所や砦を建設した。「カミノ・レアル」(後のサンアントニオ道路)と呼ばれる道を拓いており、現在のハンター道路、ホプキンス通り、アクアリーナ・スプリングス・ドライブとなっている。このルートは後に4マイル (6 km) 南に移され、地元ではオールド・バストロップ・ハイウェイと呼ばれる郡道266号線になっている。デ・レオン隊は伝道者聖マルコの祭日、4月25日にこの川に到着したので、川にサンマルコス川と名付けた[5][7]

1755年、サンフランシスコ・ザビエル・デ・ヒヘド砦と、サンフランシスコ・ザビエル・デ・ホルカシタス、ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・カンデラリア、サンイルデフォンソの伝道所が、現在のミラム郡からサンマルコス川のサンフランシスコ・ザビエル・デ・ロス・ドロレス伝道所に移された。歴史家の間では、スペインの開拓地がサンマルコス泉にあったのか、他の場所なのかについて議論が続いている。1808年1月、メキシコ人家族の小集団が川を渡ったオールド・バストロップ・ハイウェイ沿いに入植し、ビラ・デ・サンマルコス・デ・ネベと名付けた[8]。その開拓者達は洪水やインディアンの襲撃に遭い、1812年には開拓地を放棄した[9]

1846年11月、サンマルコス泉の近くに最初のイギリス人が入植した。テキサス州議会は1848年3月1日にヘイズ郡を組織化し、サンマルコスを郡庁所在地に指定した。1851年、川の水源の南西約1マイル (1.6 km) に町の中心部が区画割りされた。町は地元産出綿花の綿繰りと製粉の中心になった。町の設立者かつ初期開拓者の中で最も著名だったのが、テキサス革命の英雄かつテキサス共和国の副大統領を務めたエドワード・バールソンだった。バールソンは1849年に川の上限にダムを建設した。このダムが、現在のシーウェル公園の中にあるものなど幾つかの製粉所を動かす動力を提供した。1881年のサンマルコステキサス州立大学にあるオールド・メイン学術ビル、2010年撮影

1881年にインターナショナル・グレート・ノーザン鉄道が開通してからの10年間で、牛と綿花が地域の商業と交通の中心としてのサンマルコスの成長の基盤となった。

1899年、南西テキサス州立師範学校(現在のテキサス州立大学)が、州内公立学校の教師を育てるために教育学カレッジとして設立された。1907年、私立のサンマルコス・バプテスト・アカデミーが設立され[10]、教育が町の重要な分野の1つになった。第二次世界大戦の需要によって町の経済は多様化し、軽工業など製造業の分野で成長を始めた。

1940年代後半、元ハリウッドの監督シャドラック・グラハムがその『我が故郷の町』シリーズの一環としてサンマルコスの日常生活についてドキュメンタリー映画を制作し、小さな町に商業と市民活動を奨励することになった。この映画は、スミスズ・フラワーズ、ウォルドリンズ・クリーナーズ、ラックス・ファニチャー、パレス映画館など当時の地元企業を取り上げていた[11]

町のすぐ東にあるゲーリー空軍基地は、1942年にサンマルコス陸軍飛行場として開設され、1947年にサンマルコス空軍基地と改名し、最後は1953年にアーサー・エドワード・ゲーリー中尉の名が冠された。ゲーリー中尉は1941年12月7日にフィリピンクラーク空軍基地で戦死しており、第二次世界大戦で死んだ初のサンマルコス出身者となった。大戦中にこの基地では1万人以上の航法士を訓練し、その後はヘリコプターのパイロットと機械整備士を訓練する国内最大の空軍と陸軍のセンターとなった。21の飛行大隊と4,800人の軍属が駐屯した。この基地は1956年に陸軍に渡されてキャンプ・ゲーリーとなり、1963年には閉鎖された。その後、基地の一部がサンマルコス市に移管されてサンマルコス空港となり、残りは1966年にゲーリー・ジョブー・コーズ・センターとしてオープンした[12]

1960年代、アクアリーナ・スプリングス[13] とワンダー・ワールド[14] が設立され、観光業が市経済の成長分野になった。この1960年代までに南西テキサス州立大学が地域の重要な機関になり[15]、1965年のゲーリー・ジョブー・コーズ訓練センターの開設と共に[16]、教育が市内経済最大の分野となった[17]。オースティン市が爆発的に成長したことで、サンマルコス市もさらに繁栄するようになった。

1973年までに、アメリカ合衆国国勢調査局によって、サンマルコス市とヘイズ郡はオースティン大都市圏統計地域に含まれるようになった[18]。この年には市の人口25,000人となり、南西テキサス州立大学の学生数は2万人となった。

1990年までに市人口は28,743人、2000年には 34,733人、2010年には 44,894人となった。2013年5月にアメリカ合衆国国勢調査局が公表した報告書では、人口5万人以上の都市と町では国内最大の人口成長率となっていた。2011年と2012年の間でも6.9%増加した[19]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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