サンブルーノ
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サンブルーノ
San Bruno

サンブルーノからサンフランシスコ湾を望む(2006年)
サンマテオ郡内の位置
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度37分31秒 西経122度25分31秒 / 北緯37.62528度 西経122.42528度 / 37.62528; -122.42528座標: 北緯37度37分31秒 西経122度25分31秒 / 北緯37.62528度 西経122.42528度 / 37.62528; -122.42528
アメリカ合衆国
カリフォルニア州
サンマテオ郡
法人化1914年12月23日[1]
政府
 ? 市長ジム・ルアン[2]
面積[3]
 ? 合計5.478 mi2 (14.188 km2)
 ? 陸地5.478 mi2 (14.188 km2)
 ? 水域0 mi2 (0 km2)  0%
標高[4]92 ft (28 m)
人口(2020年)[5]
 ? 合計43,908人
等時帯UTC-8 (太平洋標準時)
 ? 夏時間UTC-7 (太平洋夏時間)
ZIPコード94066, 94067, 94096, 94098
市外局番650
FIPS code06-65028
GNIS feature ID277616, 2411778
ウェブサイト ⇒sanbruno.ca.gov

サンブルーノ(: San Bruno)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンマテオ郡にある都市。人口は4万3908人(2020年)。市は1914年に法人化(編入)された。サンブルーノ警察署
歴史
初期

サンブルーノにはUrebureというオローニ族の集落があった。1769年にスペイン人の探検家ガスパール・デ・ポルトラの率いた探検隊がこの地を訪れた。後に、ブルーノ・デ・ヘセタによってさらに大規模な探検が行われ、中世の修道会の創設者であるケルンのブルーノからサンブルーノ川が名付けられた。サンブルーノという市名はこの川からとられたようである。

ミッション・サンフランシスコ・デ・アシス伝道所の設立に伴い、サンブルーノの周辺一帯は家畜の牧草地となった。やがて伝道所は衰退し、この地域はランチョ・ブリブリの一部としてサンフランシスコの11代目アルカルデ(市長)のホセ・デラクルス・サンチェスに与えられた。彼の父ホセ・アントニオ・サンチェスが亡くなった後、遺産が分割され、ランチョは売却された[7]。後に、地域の大部分で酪農が行われるようになった。

市には駅馬車のバターフィールド・オーバーランド・メールの、クラークスズ駅[8]が置かれた。1849年には宿屋が建てられ、当初はソープズ・プレイスと、後にアンクル・トムズ・キャビンあるいは14マイル・ハウスと呼ばれた[9]。宿屋は1949年に廃業し、ラッキーズ・スーパーマーケット(現在はエル・カミノ・レアルとクリスタルスプリングス・アベニューの交差点の角にウォルグリーンのドラッグストアがある)に建て替えられた。ジェネヴェイン・アベニューの名前の元となったガス・ジェネヴェインはサンブルーノ・ハウスというランドマークを建設したが、火災によって何度か焼失し、3回目の火事の後には再建されることはなかった。この場所の周辺には家や牧場が点在していた。1860年代、サンフランシスコサンノゼを結ぶ鉄道の駅がサンブルーノに建設された。鉄道は最終的にサザン・パシフィック鉄道の一部に組み込まれ、旅客輸送と貨物輸送の両方を行っていた。現在はカルトレインが運行されている。

アメリカ合衆国郵便公社の郵便局は1875年に初めて設置された。1890年から1891年、また1893年から1898年にかけてのそれぞれ数か月は、郵便業務が停止していた時期もあった。1898年からは切れ目なく郵便業務が行われるようになった。現在の郵便局はタンフォラン・ショッピングセンターの近くに位置している[10][11]
20世紀

1906年のサンフランシスコ地震、またそれに伴う火災が発生した後、市の成長と発展が始まった。1906年後半には市で最初の公立小学校が完成した。1910年、エッジモント小学校の完成により、すべてのクラスがそちらに移動し、以前の小学校があった場所にはシティ・ホールという名の公共施設ができた。1912年にはノース・ブレイ小学校という別の小学校が開校した。この学校の初期の生徒には、後に俳優として活躍するエディ・ロチェスター・アンダーソンがいた。カリフォルニアで最初の州道であるエル・カミノ・リアルの建設が1912年にサンブルーノのアンクル・トムズ・キャビン付近で始まった。この道路は現在州道82号線に指定されている。市の近隣にあるサンフランシスコ国際空港は1927年の前半に開業した。空港内には気象局(Weather Bureau)があり、現在はアメリカ国立気象局によって運用されている。チャールズ・リンドバーグ大西洋横断飛行が成功したことの凱旋で、初期の空港を訪れていた。

1911年1月18日、飛行家のユージン・バートン・イーリーがタンフォランから離陸し、サンフランシスコ湾に停泊中の装甲巡洋艦USSペンシルベニアに着艦することに成功した。これは史上初めて飛行機が艦上に着陸した事例である。

ローカル紙のサンブルーノ・ヘラルドによる運動の後、道路を舗装することを主な目的として1914年にサンブルーノは法人化された。グリーン・ホールが市役所となった。サンブルーノは急速に成長し、1920年に約1500人の人口が、1930年には3,610人に増加した。1940年代にはニュー・エッジモント(後にデシマ・アレンと改名された)、クリスタル・スプリングスなどの学校が新たに建設された。

1930年、エル・カミノ・シアターがエル・カミノ・リアルとサン・マテオ・アベニューの交差点の角にオープンした。エル・カミノではアニメ映画、短編コメディー、アドベンチャー、ニュース映画などが2本立てで上映され、土曜日と夏季の水曜日には子供向けの昼公演が行われた。ふつうは映画のフィルムは週ごとに変わったが、1958年のセシル・B・デミル監督作品十戒は2週間上映された。タンフォラン・ショッピングセンターに4つのスクリーンを持つ映画館がオープンしたこともあり、1970年台に映画館は閉鎖された。エル・カミノ・シアターのあった建物は改装されたが、現在は使われていない[12] 。後にタンフォラン・ショッピングセンターの北に、より規模の大きなシネマコンプレックスのセンチュリー・アット・タンフォランが建設された[13]

退役軍人が埋葬されていたサンフランシスコのプレシディオは空きスペースが無くなりつつあったため、1939年、旧陸軍省はサンブルーノにゴールデン・ゲート国立共同墓地を創設した。1942年、第二次世界大戦が開戦した後、大統領令9066号により日系アメリカ人を一時的に強制収容するために、競馬場を改造してタンフォラン仮収容所が建設された[14]

第二次世界大戦の終戦後、市は成長を続け、ミルズ・パーク、ローリングウッド、クレストムーアなどの新たな分譲地ができた。1947年、サウスサンフランシスコレッドウッドシティを結ぶベイショア・フリーウェイ(国道101号線)が開通し、サンブルーノにはインターチェンジが設置された。

1950年以前、サンブルーノの高校生はサザンパシフィック鉄道でサンマテオ高校(1902年開校)かバーリンゲーム高校(1923年開校)に通学していた。1950年9月11日、サンブルーノにカプチーノ高校が開校した。多目的ビルとして使われていたグリーン・ホールに代え、1954年に市は図書館と市民ホールを開設した。同年、サンフランシスコ国際空港の拡張事業の一部として、中央ターミナル(現在のターミナル2)が開業した。中央消防署も市民ホールの都成に建設され、さらにクレストムーアにも消防署が開設された。

女優、作家のスーザン・サマーズは1946年にサンブルーノで生まれた。彼女は地元の学校に通い、1964年6月にカプチーノ高校を卒業した。

1953年、サンブルーノは未編入領域のロミータ・パークのうち、サンフェリペ・アベニュー、エル・カミノ・リアル、サン・ホアン・アベニュー、鉄道の線路で囲まれた地域を併合した。[15]併合されるまでは、ロミータ・パークにはサザンパシフィック鉄道の駅があった。

ローリングウッド、クレストムーア、ジョン・ミューア、カール・サンドバーグの各小学校に続き、パークサイド・インターミディエイト・スクールが1954年に開校した。さらにエングバル・インターミディエイト・スクールもクレストムーア・キャニオンに建設されたが、後に閉校した。また入学者数の減少によりノース・ブレイ小学校とサンドバーグ小学校も閉校した。これらの学校はすべてサン・ブルーノ・パーク学区の一部であった。市の北西部はラグナ・サラダ学区に属していた。私立学校のハイランズ・クリスチャン・スクールは1966年に設立された。この学校では大学進学のための教育が行われている。サンブルーノは1950年代半ばに新たな併合を検討し、市の領域を太平洋沿岸まで広げようとした。だがサンブルーノの西側にあった未編入領域は併合に反対し、1957年にパシフィカ市として法人化された。

1957年5月22日、マグニチュード5.7の地震が市の周辺で発生した[16]。市全体で多少の被害があり、いくつかの学校では窓ガラスが割れたり壁にひびが入ったりした。教育学区の理事が集まって開かれた会合のテーブルに、石膏ボードの大きな塊が落下したが、幸いにもけが人は出なかった。商店では棚の商品が床に散乱するなどの被害があり、一時的に閉店した店舗もあった。カプチーノ高校では地震の後数日休校したが、他の学校では生徒を開けた場所に避難させた。

エイマック社(Eitel-McCullough)はサンブルーノに長年にわたって大規模な工場を運営している。ウィリアム・アイテルとジャック・マクロウが1934年に会社を立ち上げた。同社は電力格子増幅管の生産に特化している[17]。エイマック社は通信機器に使われる真空管の生産でも知られており、それ以外にも軍事用、商業用の製品を生産している[18]。同報通信も業務の一部として行っているため、エイマック社はFMラジオのKSBR(100.5MHz)も運営している[19]。このラジオ局は1947年に開設され、同年にレンジャトーンのオルガンのテープレコーダーが放送で流された。レンジャトーンのオルガンのテープレコーダーを放送したのはアメリカで2つのラジオ局だけであり、もう1つはワシントンD.C.のウォッシュFMであった[20]。このテープレコーダーはドイツのマグネトフォンをもとに作られたものであった。同社はさらに広い土地を必要としたため、1959年にサンカルロスに移った[21]。エイマックのサンカルロス工場は1959年4月16日に完成した[21]。1965年、エイマック社はバリアン・アソシエイツ(Varian Associates)社と合併し、EIMAC Division of Varianとして知られるようになった。1995年、レオナルド・グリーン・アンド・パートナーズ社はバリアンの電子管部門を買収し、CPI社(Communication and Power Industries)が組織された[22]

1960年に2年制のコミュニティ・カレッジの、スカイライン大学が設立された。クレストムーア高校は1962年9月に開校したが、1980年6月に入学者数の減少のため閉校した。

昔からサンブルーノのランドマークといえば、1899年に開設されたタンフォラン競馬場であった。シービスケットサイテーションといった有名な競走馬がここでレースを戦った。著名な映画監督であるフランク・キャプラもこの競馬場でブロードウェイ・ビルとライディング・ハイの2本の映画の一シーンを撮影した。1942年の6か月間、競馬場にはサンフランシスコ・ベイエリアに住む日系人が強制収容された。約8000人の日系人が集められ、その後ユタ州の砂漠地帯にあった収容所やオーエンズヴァレーにあるマンザナー強制収容所に移送された[23]。競馬場は1964年に閉鎖され、まさに取り壊されようとされていた時、7月31日に火災によって焼失してしまった[24] 。競馬場の跡地にはザ・ショップス・アット・タンフォランというショッピングモールが後に建設された。その周りの道路はタンフォラン競馬場で活躍した競走馬の名前が付けられている。

1964年12月23日、フライング・タイガー・ライン282便が市内に墜落した。

1960年代後半、サンブルーノ市内を通る州間高速道路280号線(フニペロ・セラ・フリーウェイ)、さらに州間高速道路380号線が建設された。サンブルーノ計画委員会(キャスパー・ワインバーガーの兄、ピーター・ワインバーガーが委員長を務めていた)は、大規模ショッピングセンターをベイヒル(サンブルーノ・アベニューとスニース・レーンの間、かつての海軍用地)とタンフォラン2か所に建設する計画を審査し、承認した。最終的な決定はサンブルーノ市議会によって下され、大規模商業施設の建設が進められることになった。ショッピングセンターが建設される前までは、サンマテオ・アベニューとエル・カミノ・リアルに市の商業施設の大半が位置していた。

サンブルーノはベイ・エリアにおいて、独自のケーブルテレビ、インターネットのシステムを運営している2つの都市の1つである。

1989年10月17日、マグニチュード6.9のロマ・プリータ地震が発生し、市でも多少の被害が出た。当時サンブルーノで最も高い建物の、合衆国郵便公社西部本社は深刻なダメージを負ったために取り壊された。その後、この場所にはGAPのオフィスビルが建設された。現在、ビルにはウォルマートのオンライン部門(Walmart.com)が入っている[25]。このビルは現在市内で最も高い建物である。
21世紀火災と爆発の後、破壊された街の様子

2003年、BARTの路線のミルブレーサンフランシスコ国際空港間が延長され、サンブルーノ駅が開業した。

2007年、YouTubeの本社がサンマテオからサンブルーノの、州間高速道路380号線からチェリー・アベニューに入った場所へ移転した。

2010年9月9日午後6時15分頃、パイプラインが破裂し火災が発生。周囲に深刻な被害を与えた。8人が死亡し、約60人が怪我を負った。さらに38軒の家屋が全壊し、123軒の家屋が一部損壊した。火災が起きた場所は衛星画像でも容易に捉えられていた。

爆発はサンフランシスコ国際空港の約3q西で発生した。最初は航空機の事故が発生したと思われていたが、連邦航空局や空港は航空機が墜落したという報告は確認されていないとした。

爆発が発生する数日前から、周辺で天然ガスの臭いが強くしているとの連絡が複数の住民から入っていた。

9月10日、国家運輸安全委員会のチームは爆発が発生した原因の調査を開始した。

9月13日、パシフィック・ガス・アンド・エレクトリック・カンパニー(PG&E)は爆発の犠牲者のための基金に100万ドルを充てることに合意した。


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