サンフレッチェ広島F.C
原語表記サンフレッチェ広島F.C[1]
呼称サンフレッチェ広島[2]
クラブカラー 紫[2]
創設年1938年
所属リーグ日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョンJ1リーグ
昨季リーグ順位3位(2023年)
クラブライセンスJ1
ホームタウン広島県広島市[2]
ホームスタジアム
エディオンピースウイング広島
収容人数28,520
運営法人株式会社サンフレッチェ広島[2]
代表者 仙田信吾[2]
監督 ミヒャエル・スキッベ
公式サイト公式サイト
ホームカラーアウェイカラー
今シーズン
■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ
サンフレッチェ広島F.C
サッカー
(男子)サッカー
(女子)サッカー
(アカデミー)
異競技連携
画像外部リンク
エンブレム
en:file:SanfrecceHiroshima.png現エンブレム
en:file:SanfreeceHiroshima.png旧エンブレム
サンフレッチェ広島F.C(サンフレッチェひろしまエフシー、英: Sanfrecce Hiroshima F.C)は、日本の広島県広島市をホームタウンとする[2]、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。Jリーグ創設当初からのチーム、オリジナル10の1つ。呼称はサンフレッチェ広島(サンフレッチェひろしま)。 株式会社サンフレッチェ広島[3]
概要
Sanfrecce Hiroshima FC Co., Ltd.[注 1]種類株式会社
市場情報非上場
略称S.FC
本社所在地730-0051
広島市中区大手町1-4-14上田ビル2F[2][3]
設立1992年4月24日
業種サービス業
法人番号4240001004278
事業内容サッカー事業[3]
代表者取締役会長 久保允誉
代表取締役社長 仙田信吾
資本金2億2000万円[7]
売上高34億2,400万円(2018年1月期)[7]
営業利益▲1,400万円 (2018年1月期)[7]
経常利益▲100万円 (2018年1月期)[7]
純利益100万円 (2018年1月期)[7]
純資産12億1,100万円 (2018年1月期)[7]
総資産16億2,500万円 (2018年1月期)[7]
従業員数48人 (2021年12月現在)[3]
決算期1月期
主要株主エディオン 46.96%
マツダ 16.67%
中国電力 3.42%
広島銀行 2.99%
広島県 2.50%
広島市 2.50%
など、合計64株主[8]
関係する人物竹下虎之助(元広島県知事)
古田徳昌(マツダ7代目社長)
久保允誉(旧デオデオ2代目社長)
特記事項:取締役会長の久保允誉はエディオン社長を兼務。
テンプレートを表示
1938年(昭和13年)に創設されたマツダ(旧・東洋工業)のサッカー部であるマツダサッカークラブを前身とする。日本のサッカー1部リーグ(日本サッカーリーグ、J1リーグの優勝回数は8度を数え、これは鹿島アントラーズと並び国内最多(日本の全国サッカーリーグ歴代優勝チーム (1部))。
運営会社「株式会社サンフレッチェ広島」は1992年4月設立。これまで社長はマツダ系か家電量販店・エディオン(旧デオデオ)系の人物が就任していたが、2018年から就任した山本拓也はナイキジャパン出身で、2020年に就任した仙田信吾は中国放送出身(2019年はRCCフロンティア会長)[9] と外部からの招聘が2人続いている。なお2社の有価証券報告書によれば、(株)サンフレッチェ広島は双方ともに「関連会社」にあたる。
クラブ名称の「サンフレッチェ」は、日本語の「三」およびイタリア語で矢を意味する「フレッチェ(frecce(複数形)」を合わせたもので、広島の戦国大名・毛利元就の「三本の矢」の故事にちなむ[2]。
チームマスコットは、中国山地に生息するツキノワグマをモチーフとした「サンチェ」と[2]、サンチェの彼女(設定時。現在はただのお友達)として2000年に誕生した「フレッチェ」[2]。
エンブレムは2005年1月10日(公式発表)に設立当初のものから現在のものに変更された(ロゴは変更なし)[10]。
ホームスタジアムはエディオンピースウイング広島[11]、練習場は安芸高田市サッカー公園[2]。詳細はスタジアムの項および練習場・キャンプ地の項を参照。
なお、育成組織についてはサンフレッチェ広島F.Cの育成組織を参照のこと。他に、女子チームとしてWEリーグ所属のサンフレッチェ広島レジーナを保有する。
グッズはエディオンピースウイング広島バックスタンド2階にあるピースウイングオフィシャルストア、あるいは サンフレッチェ広島オフィシャルオンラインショップ で購入できる。ワンタッチパス対応ICチケットはPASPY一体型と1試合のみ試験的に発売したキーホルダー型の2種類存在する(詳細は下記#関連情報参照)。
歴史
前史(マツダ時代)詳細は「東洋工業サッカー部」を参照
1938年に創部された前身の東洋工業蹴球部は、サッカーどころ広島を代表するクラブとして、長く全国屈指の強豪チームとして活躍してきた。しかし、1970年代に入ると徐々に低迷し、1980年代に入ると、JSL2部へ2度降格した。1981年マツダサッカー部(マツダSC)に名称変更[注 2]。1982年、今西和男がサッカー部総監督に就任、のちに日本サッカー界に多大な影響を与えたハンス・オフトをコーチに招聘した[12][13]。
低迷の原因が地方のハンデキャップによる有力新人獲得の不足[注 3]と見た今西とオフトは、クラブ全体の育成路線を推し進め、サテライトチームのマツダSC東洋クラブを強化し、中国サッカーリーグに参戦。若手により高い実戦経験を積ませることで戦力の底上げを図った[12]。ここからは、後にオフト自身により日本代表に選出された森保一をはじめ、Jリーグ初期を支えた主力選手が多く生まれた[14](サンフレッチェ広島F.Cの育成組織#前史参照)。また選手のみならず指導者育成にも着手し、ここから小林伸二をはじめとする数多くの指導者を育てた[15][16]。ここで確立されたさまざまな方針は、現在の広島にも連綿と受け継がれている[17][18]。
すでに動き出していたプロ化への布石として、当時ドイツ・ブンデスリーガで活躍していた風間八宏を獲得。彼のプロ意識は、クラブに大きな影響を与えた[13][19]。 プロリーグ設立に向け着々と準備が進む中で、地域バランスの上からマツダSCも参加を強く要請されたが、母体となるマツダは財政的理由から降りようとした。そこへ、野村尊敬県サッカー協会会長をはじめとする多くの関係者・市民により参加要望運動が起き、それらの代表となった竹下虎之助県知事とマツダの古田徳昌社長とのトップ会談が行われた。会談翌日の1991年1月23日、正式にプロリーグ参加を表明。同年2月、プロリーグ参加10団体(オリジナル10)発表。西日本では兵庫県以西で唯一、中国地方唯一の参加となった[20][21]。 同年11月プロクラブ化に向け、旧広島県立美術館2階ロビーの四畳半ほどのスペースに、スタッフ4人からなる設立準備室を置いた[22](チーム名やチームカラー決定経緯については#チーム名およびチームカラー節を参照)。
Jリーグ創設前夜