サンドラ・デイ・オコナー
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サンドラ・デイ・オコナーSandra Day O’Connor

生年月日 (1930-03-26) 1930年3月26日
出生地 アメリカ合衆国テキサス州エルパソ
没年月日 (2023-12-01) 2023年12月1日(93歳没)
死没地 アメリカ合衆国アリゾナ州
出身校スタンフォード大学
所属政党共和党
配偶者ジョン・ジェイ・オコナー三世
宗教米国聖公会
サイン
合衆国最高裁判所陪席判事
在任期間1981年9月25日 - 2006年1月31日
アリゾナ州上院多数党院内総務
アリゾナ州上院共和党院内総務
在任期間1973年 - 1975年
アリゾナ州議会上院議員
在任期間1969年 - 1975年
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サンドラ・デイ・オコナー(英語: Sandra Day O’Connor、1930年3月26日 - 2023年12月1日)は、アメリカ合衆国法律家。女性として初めて合衆国最高裁判所判事となった[1]共和党所属の大統領ロナルド・レーガンによって1981年に最高裁判事に指名され、2006年に引退するまでその職にあった。

最高裁判事に指名される以前には、アリゾナ州の州議会議員や州裁判所の判事等を歴任した[2]2005年7月1日、後継者の指名承認を待って引退する意思を表明した。同年10月に、ジョージ・W・ブッシュ(George W. Bush)大統領は、サミュエル・アリート(Samuel Alito)を後継判事として指名し、アリートは2006年1月31日に最高裁判事に就任した。2012年2月までウィリアム・アンド・メアリー大学総長を務めた。

晩年はフィラデルフィアにある国立憲法センター(National Constitution Center)の理事を務めていた。

2001年には、レディズ・ホーム・ジャーナル(Ladies’ Home Journal)誌によって、アメリカで2番目に影響力のある女性に選ばれた[3]。また、2004年2005年には、フォーブス誌によって、世界で6番目(2004年)、及び36番目(2005年)に影響力のある女性に選ばれた。2004年にオコナーより上位に選ばれたアメリカ人は、当時の国家安全保障問題担当大統領補佐官コンドリーザ・ライス、当時上院議員だったヒラリー・クリントン、及び、ローラ・ブッシュ大統領夫人の3名だけである[4]
私生活と学歴

テキサス州エルパソ牧場を経営するハリー・アルフレッド・デイ(Harry Alfred Day)とアダ・メイ・ウィルキー(Ada Mae Wilkey)との間に生まれた[5]。その後、アリゾナ州南西部の町、ダンカン近辺の牧場で少女時代を過ごしたが、その時期の生活については、弟であるH・アラン・デイ(H. Alan Day)との共著『レイジーB:アメリカ南西部の牧場育ち(Lazy B: Growing up on a Cattle Ranch in the American Southwest)』に詳述されている。初等教育の大部分については、彼女は、テキサス州エルパソに住む母方の祖母の元から公立学校、次いでラドフォード女子高校に通学した。アルファ・デルタ・パイ・ソロリティのメンバーでもある。

オコナーは、カリフォルニア州パロアルトスタンフォード大学に学び、1950年経済学学士号を授与された。彼女はそのまま同大学のロー・スクール(Stanford University Law School)に進み、スタンフォード・ロー・レビュー(Stanford Law Review)の編集に参画、そして、102人中3位の成績で卒業した。このクラスの卒業生総代は、その後連邦最高裁長官となるウィリアム・レンキスト(William H. Rehnquist)である。在学中、オコナーとレンキストは短期間だけ付き合っていたことがある[6]

1952年に、ジョン・ジェイ・オコナー三世(John Jay O’Connor, III)と結婚し、スコット、ブライアン、ジェイの三子をもうけた。ジョン・ジェイ・オコナーは、17年以上にわたってアルツハイマー病と闘っており、サンドラ・オコナーは、この病気に関する一般の理解を得る運動に深く関わっている。2007年11月CNNの報道によると、ジョンは、記憶力が低下してきており、長年の家族との絆の記憶を失ってきた結果、現在収容されている施設に新しく好きな女性ができるなど、家族にとって状況は悪化している[7]。また、2007年11月14日付のニューヨーク・タイムズ紙の記事、『アルツハイマー、そして愛に囚われて(Seized by Alzheimer’s, Then Love)』によると、オコナー家の人たちは、そうであっても彼女の55年来の夫が満足なのであれば幸福であると述べている[8]
法曹・政治家として

ロー・スクールでの実績にもかかわらず、女性であることを理由に、カリフォルニアの法律事務所の中にはオコナーを弁護士として雇おうとするところはなかった。リーガル・セクレタリーとしての雇用オファーをする事務所がひとつあったのみである。そこで彼女は、公務員としてのキャリアを積むこととし、1952年から1953年にかけて、カリフォルニア州サンマテオ郡の郡次席検事を務め、次いで、1954年から1957年の間には、ドイツフランクフルト・アム・マインにおいて民間人の資格で陸軍補給将校付の弁護士の職にあった。その後、1958年から1960年までの間フェニックス近郊のメアリーヴェールで民間の弁護士業に就いた後、1965年から1969年にはアリゾナ州の司法次官補(アメリカでは連邦政府の司法長官以外に各州政府ごとに司法長官が置かれている。オコナーが務めた州司法次官補は連邦政府の序列と同様に、州司法長官・州司法次官に次ぐ第3番目のポストである。)を務めた。

1969年には、共和党のジャック・リチャード・ウィリアムス(en:Jack Richard Williams)知事によってアリゾナ州議会の上院議員に任命された。その後二度の選挙で再選されて、共和党議員として、二年の任期を二期務めた。この間、1973年には上院多数党院内総務に選出されている。

1975年、オコナーは、マリコパ郡上級裁判所の判事に選出され、1979年まで務めた後、同年、民主党員であるブルース・バビット(Bruce Babbitt)知事によってアリゾナ州最高裁判所の判事に任命された。このように、アリゾナ州の政界に身を置く間に、オコナーは三権のすべてに仕えたこととなる。
連邦最高裁判事として
指名と承認

レーガン大統領は、1980年の大統領選挙の際、連邦最高裁判事に女性を指名すると公約していたが、1981年7月7日、公約どおり、引退するポッター・スチュワート(Potter Stewart)連邦最高裁判事の後任としてオコナーを指名した[9]

妊娠中絶反対派や宗教グループは、彼女が、女性が人工妊娠中絶を受ける権利を認めたロー対ウェイド事件の判例を変更しないであろうと考え、この指名に反対した[10]


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