サンドクリークの虐殺
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サンドクリークの虐殺
IUCNカテゴリV(景観保護地域)
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地域アメリカ合衆国コロラド州カイオワ郡
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度32分27秒 西経102度31分43秒 / 北緯38.54083度 西経102.52861度 / 38.54083; -102.52861座標: 北緯38度32分27秒 西経102度31分43秒 / 北緯38.54083度 西経102.52861度 / 38.54083; -102.52861

サンドクリークの虐殺は、1864年11月29日アメリカコロラド地方で、北軍アメリカ軍)が無抵抗のシャイアン族アラパホー族インディアンの村に対して行った、無差別虐殺。
背景

西方に勢力を伸ばすアメリカ合衆国は、その植民地支配をミシシッピ川を越えた地域にまで広げ、それはロッキー山脈を越えつつあった。邪魔なインディアン部族を保留地に隔離し、入植地は順調に増えつつあった。が、この時期に起こった南北戦争は、合衆国のインディアン政策を混乱させてもいた。各地で白人の侵略に対抗するインディアンたちの戦い(インディアン戦争)が激化し、双方をそれぞれ交戦派と和平派の二派に分けていた。

コロラド州ではこの虐殺に先駆けて、白人の大集会が開かれ、有志の寄付によって「インディアンの頭の皮の買い取り資金」として5000ドルが集まった。「耳まで付いている頭の皮」なら、25ドルの高額な賞金が設定されたのである。金鉱に群がった侵略者たちにとって、周辺のインディアンはフロンティアを害する障害にすぎなかった。「野蛮なインディアンの絶滅」は、入植者の悲願だったのである。

コロラド準州の近辺でも、インディアンと白人侵略者との激しい戦いが続いていた。両者ともに、ぞっとするような残虐なやり方で死者の身体が損傷され、互いの憎しみ合いは果てがなかった。シャイアン族の襲撃は、ことにデンバーの白人たちを恐れさせていた。
インディアン絶滅キャンペーン

1863年、「事件」の前年、デンバーの地元新聞『ロッキー山脈ニュース』は、州を挙げたインディアン絶滅キャンペーンを始めた。この年3月、『ロッキー山脈ニュース』の編集者は社説でこう書いた。やつら(インディアン)は、この地上から消し去るべき、自堕落で、宿無し同然で、残忍で恩知らずな人種である。

コロラド議会では、27人のうち10人が、インディアン根絶の強行を主張していた。翌1864年はコロラド州選挙が行われる年だった。金鉱を狙ってコロラドに押し寄せる白人入植者は、「インディアン絶滅」を掲げる政治家たちを圧倒的に支持しており、ジョン・エバンズ知事を含む『ロッキー山脈ニュース』に関連する政治派閥は、「インディアン絶滅」の政策が明らかに支持率を上昇させるカギだと認めていた。

翌年の総選挙まで、『ロッキー山脈ニュース』は「インディアンの脅威」を書きたて続けた。「インディアンが陰謀を企んでいる」というでたらめな噂は、「事実である」との評判だった。白人とインディアンの間のどんな些細な諍いでも、「インディアンによる大虐殺」として報告された。

2人の白人兵士が死んだ、インディアンと兵士との諍いの後、コロラドの軍隊は、25人のインディアンを殺すことで報復した。デンバー市民と軍隊は、2人の兵士の弔いに聖歌を歌った。25人のインディアンを大量虐殺した陸軍の指揮官はこう述べている。私は現在、インディアン撲滅のためには、結果として生じなければならないこの部族との戦争しか他にはないと信じております。

条約を破った白人の不法侵入に対するインディアンの抵抗によって、あちこちで小競り合いが続いた。インディアンの集団が、コロラドの白人自警団員や軍人によってあちこちで殺された。『ロッキー山脈ニュース』は1864年8月にこう宣言した。「入植者と軍は、彼ら、彼らの住居、女達、およびすべてのために、(インディアンを殺しに)行かなければならない」

この夏、白人入植者の家族がインディアンに殺された。エバンス知事は、緊急宣言を出した。民兵連隊が結成され、彼らは見つけ次第、すべての敵対的なインディアンを殺す許可を与えられた。知事は彼らに補償を約束した。「馬、その他資産が何であれ、彼らは政府によって支払いを受けることが出来ると約束する。」

州政府が「直ちに」、「すべての」インディアンの殺害を認可したこの宣言によって、「馬」と「その他の資産」を得るために、入植者たちはインディアンを無差別殺害し、彼らが「敵対的だった」と主張した。さらに『ロッキー山脈ニュース』は、「赤い悪魔の根絶」キャンペーンを強化し、和平派のインディアンも交戦派のインディアンも、区別するのをやめた。エバンス知事はもう一つの発言を行った。あらゆる証拠において、平原インディアンのほとんどは実際に敵対的だった。したがって、市民が彼ら全員を「追いかけて、殺して、破壊する」ことは、市民として当然の行動である。
和平会談虐殺直前の9月28日にはデンバーではシャイアン族、カイオワ族、アラパホー族の酋長達との和平会談が開かれていた

1864年9月28日、州を挙げた「インディアン皆殺し政策」が進められる中、コロラド準州デンバーにある米軍のウェルド基地で、周辺のシャイアン族カイオワ族アラパホー族インディアン酋長と、コロラド準州のジョン・エバンズ知事、ジョン・チヴィントン大佐ら、同地の白人高官との和平会談が開かれた。

酋長たちは一台の馬車でデンバーの町にやって来た。周辺では苛烈なインディアンと白人の殺し合いが続いていたが、デンバーの白人たちの何人かは家の外まで出てきて彼らを出迎えた。シャイアン族からはモケタヴァト(ブラック・ケトル)、ホワイトアンテロープ、ラーンベアー、リトルウルフ、トールベアーの5酋長が出席した。

和平協議では、インディアンによる襲撃について白人側から抗議が出され、シャイアン族の酋長の一人ブラックケトルは白人たちに対し、「自分は心から白人との平和を願っているし、血気にはやる若い戦士たちを抑えられなかったことは残念に思う。今後そういうことのないよう、出来るだけ努力する」と答えた。

彼ら酋長たちは、彼らのバンド(集団)を説得して、実際に以後アーカンソー川沿いの米軍のライアン基地近くへ異動させた。駐屯地の白人指揮官らは彼らに食糧を与え、「どこか遠くの狩りで暮らせる場所へ移れ」と命令した。ブラックケトルの属するシャイアン族の集団は、サンドクリークの湾曲する流れのそばにティーピーを建て、野営を築いた。ブラックケトルとホワイトアンテロープらは彼らの部族員と協議を行った。交戦派の意見が優勢だったが、一部は和平派のブラックケトルに賛同し、この和平派の野営に残った。
ブラックケトル酋長シャイアン族のモケタヴァト(ブラックケトル)酋長

モケタヴァト(黒い薬缶、ブラックケトル)は、シャイアン族の温厚な酋長だった。彼は和平会談で表明したとおり、白人との対立を望まず、和平を結びたがった老賢者だった。

アメリカインディアンの社会は、完全合議制民主主義であり、「首長」や「族長」のような権力者は存在しない。白人が「指導者」だと思っている「酋長」(チーフ)は、実際には「調停者」であって、「部族を率いる」ような権限は持っていない。インディアンは「大いなる神秘」のもと、すべてを「聖なるパイプ」とともに合議で決定するのであって、個人の意思で部族が方針を決定するというような社会システムではない。

しかし白人たちは、インディアンとの条約交渉の際に、「酋長」を「代表」、「指導者」だと勘違いして、彼らと盟約することによって全部族員を従わせようとした。しかしこれは全くの思い違いであり、酋長は和平の提案はするだろうが、それはあくまで調停であって、部族民を従わせたり、強制するような立場ではない。そんな立場はインディアンの社会には存在しないのである。

白人はブラックケトルを「大指導者」だと勘違いしているから、彼個人の意思がシャイアン族の総意だと思い込んでいる。ブラックケトルは「調停者」として「最大限の努力」を約束しているのだから、これ以上の要求はもはや無理難題でしかないのだが、白人たちにはこれが全く理解できなかった。
ジョン・M・チヴィントン大佐虐殺を指揮したジョン・チヴィントン大佐

米軍コロラド軍管区の指揮官ジョン・チヴィントン大佐は、もともとはキリスト教メソジスト派の牧師だった。のちに従軍牧師になり、やがてインディアン絶滅を力説する好戦的な軍人となった。また現役の協会長老だった。

この年の州議会総選挙で、彼は州議員候補に名乗りを上げていた。チヴィントンは選挙演説で、インディアン嫌いを隠そうともせず、次のような言葉を残している[1]。インディアンに同情する奴は糞だ!... 私はインディアンを殺さなければならない。そして神の天国のもとではどのような方法であってもインディアンを殺すことは正しく名誉あることであると信じる。

チヴィントンはインディアンをシラミに喩えるのが好きだった。彼は「事件」の数か月前に、白人大衆を前にこうも演説している。小さいのも大きいのも、すべて殺して頭の皮を剥ぐべきです。卵はシラミになりますから。

この言い回しは、チヴィントンのお気に入りのもので、彼の軍隊のキャッチフレーズになった。これはナチス・ドイツのハインリッヒ・ヒムラーの、特定民族のジェノサイドについて「シラミを駆除するのと同じこと」とした発言に、半世紀先駆けるものだった。


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