サンドウィッチ_(イングランド)
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サンドウィッチ

英語: Sandwich



14世紀に建立された聖トマス病院(St Thomas' Hospital)
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}サンドウィッチケントにおけるサンドウィッチの位置
人口4,985人 (2011)[1]
英式座標TR335585
非都市ディストリクト

ドーバー地区(英語版)

シャイア・カウンティ

ケント

リージョン

サウス・イースト

構成国 イングランド
イギリス
郵便地域.mw-parser-output span.allcaps{text-transform:uppercase}Sandwich
郵便番号CT13
市外局番01304

警察ケント
消防ケント
救急医療サウス・イースト・コースト

欧州議会サウス・イースト・イングランド
英国議会

サウス・サネット選挙区(英語版)


場所一覧
イギリスイングランドケント.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯51度16分29秒 東経1度20分20秒 / 北緯51.274722222222度 東経1.3388888888889度 / 51.274722222222; 1.3388888888889座標: 北緯51度16分29秒 東経1度20分20秒 / 北緯51.274722222222度 東経1.3388888888889度 / 51.274722222222; 1.3388888888889

サンドウィッチ (Sandwich) はイギリスイングランド南東部ケントにある歴史的な町で、行政教区(Civil Parish)である。ストアー川(英語版)沿いにあり、人口4,985人である[1]

五港の一つであり、中世以来の建物が多く残っており、イギリス指定建造物に指定されているパブや門、古い町壁、教会救貧院、風車のホワイト・ミル(英語版)などがある。かつてはイングランドの主要な港の一つであったが、ウォンツァム海峡(英語版)が無くなったため、現在は海から2マイルほどの距離にある。その歴史的街区は保存されている[2]。サンドウィッチ湾(英語版)には自然保護区と2つのゴルフコース(王立聖ジョージ・ゴルフ・クラブ(英語版)とプリンス・ゴルフ・クラブ(英語版))がある。軽食のサンドウィッチはこの町の名前を爵位名とする第4代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギューに由来している。そのため、サンドウィッチの名は現在様々な言語で使用されている。

サンドウィッチとサネット一帯の岩石海岸河口砂丘、海岸草原塩性湿地沼地などは1994年にラムサール条約登録地となった[3]
歴史

サンドウィッチが五港になる前はウォンツァム河口にはストアー川の反対側ストナー(Stonar)に古代サクソン人の町があったが、14世紀までには姿を消した。近くのリッチバラ(英語版)は、紀元43年のローマのブリテン征服(英語版)でローマ軍が上陸したところであり、ローマ軍の要塞の遺跡がある[4]。2008年の考古学の発掘調査でこの要塞は700メートルの海岸を防衛するためのものであることが証明された[5]

1028年、イングランド王クヌート1世は船の通行と使用料金徴収のため、カンタベリー大聖堂の聖職者に勅許状を付与した。イングランド王リチャード1世神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世から釈放された後、1194年3月13日にサンドウィッチに上陸して英国に帰還している[6]。1216年5月21日に第1次バロン戦争フランスルイ皇太子(ルイ8世)が上陸したのもサンドウィッチだった[7]。同年8月のサンドウィッチの戦い(英語版)は沖合で発生した。

この町の「フィッシャー・ゲート」は1384年に建設された、中世から現存している門の一つであり、第一級イギリス指定建造物になっている[8]。そのそばにあるバービカン(英語版)も14世紀の建造物で、ストアー川にかかる橋のたもとで料金所として使用されていた[9]

イングランドの不安定な平和の4年後の1457年8月28日、国王が領地を手放し、封建貴族たちが北と西の住民を支配するようになった[10]。フランス軍はこの状況を利用してケントに攻撃部隊を送り込み、サンドウィッチの大部分を焼き払った。フランス元帥ピエール・ド・ブレゼ指揮下のオンフルールからの約4,000人の上陸部隊は、市長(英語版)ジョン・ドラリーを殺害する途中に町を略奪した。サンドウィッチ市長がこの事件を悼むために黒いローブを着ることは、今日まで続く伝統となった。

その後、1561年7月6日付のエリザベス1世勅許状により居住権を得たフランドルからの移民によって町に多くの技術がもたらされた[11]。サンドウィッチは16世紀中にイングランド人より「外国人」の人口の方が多いイングランドで唯一の町だった。歴史家のマルセル・バックハウスは、当時サンドウィッチには少なくとも2,400人のフランドル人と500人のワロン人の亡命者が住んでいたと推定している[12]

1660年には海軍司令官エドワード・モンタギューがこの町の名前に由来するサンドウィッチ伯爵の爵位を得ている。

1759年にはトマス・ペインが町の第20新通り(20 New Street)に住居と店を構えていた[13]。その家は現在、プラークでマークされており、指定建造物となっている[14]

1912年にはエドウィン・ラッチェンスはアン女王様式(英語版)のザ・サルティション(英語版)という家を建設した。その ⇒庭園は、ガートルード・ジーキルによって設計された[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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