サントリー角瓶
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サントリー角瓶
サントリー角瓶
(黄角、2007年-2016年まで発売された仕様)
基本情報
種類ウイスキー
(ブレンデットウイスキー)
度数40%
主原料モルトグレーン
※グレーンウイスキー、モルトウイスキー共に国産品を使用
原産国 日本
製造元サントリー(二代目)
販売元サントリー(二代目)
詳細情報
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サントリー角瓶(サントリーかくびん)は、サントリー(二代目法人、旧・サントリーBWS/サントリースピリッツ/サントリービール/サントリー酒類〈二代目法人〉/サントリーワインインターナショナル)が製造・販売する国産ブレンデッドウイスキーブランドの一つである。2024年令和6年〉4月現在、製造・販売されている商品は日本洋酒酒造組合の定めるジャパニーズ・ウイスキー表示基準に合致した商品である。[1][2][3]

同社の前身である、壽屋時代の1937年昭和12年)に発売され、専用ガラスの独特な亀甲模様と角ばった形が特徴で、角型あるいは角ばった瓶であることから「角瓶」「角」と通称され[4]、のちに正式な製品名として「角瓶」の名が採用された。同社のサントリーホワイトサントリーオールドトリスウイスキーなどと共に21世紀現在の今日でも販売の続くブレンデッドウイスキーの長寿製品である。

発売当初は(初代法人)サントリー酒類株式会社が製造・発売元となっていたが、2014年10月1日に行われたグループ会社内の組織変更(改組)に伴ってサントリー酒類株式会社の蒸溜酒部門が分割されてサントリースピリッツ株式会社が設立された。これにより、本品はサントリースピリッツ株式会社の扱いとなった。また、2015年1月1日付でサントリービア&スピリッツ株式会社が(二代目法人)サントリー酒類株式会社に商号変更されていた。2022年7月に行われた国内酒類事業の組織再編に伴い、(二代目法人)サントリー株式会社が製造と販売を担うこととなり、同年7月製造・出荷分より同時期時点でのシリーズ全製品において、パッケージに記載されている製造者が「サントリー(株)」に名義変更された。

本項では角瓶の基本形となるウイスキーを中心に、同シリーズに属するハイボール、および水割り等のRTD系缶入りアルコール飲料についても便宜上、記述する。
歴史
前史

1923年大正12年)に国産ウイスキー事業を開始した壽屋の創業者、鳥井信治郎スコットランドで本場のスコッチウイスキーの製造方法を学んだ(後のニッカウヰスキーの創業者となる)竹鶴政孝を招聘し、工場建設や熟成など数年間の準備期間の末、1929年(昭和4年)にモルトウイスキーをベースとした初の本格的日本製ウイスキーとして、「白札」(その後のサントリーホワイト)を発売した。発売時のフレーズは「断じて舶来を要せず」という意気軒昂なものであった。

しかし、ウイスキーの味に馴染みのなかった当時の日本人からは、白札は「煙臭い」等と言われ受け入れられなかった。市場での失敗の原因は、消費者の舶来指向とウイスキー市場そのものの成熟度の低さに加え、経験不足のまま製造された初期の「白札」はピート臭が強すぎる(いわゆるスモーキー)傾向があり、飲みにくい酒になってしまったことであった。当時、原酒の熟成度やブレンディングの研究が十分でなく、ゆえに竹鶴は改良の猶予を求めたものの、ウイスキー事業が資本投下のみで収益を上げられない状態が続き、経営に差し支えるため鳥井はウイスキー発売に踏み切らざるを得なかったのである。また翌年1930年(昭和5年)には廉価版ウイスキーとして、「赤札」(その後のサントリーレッド)を発売するが、これも売れ行きは芳しくなく途中で販売中止を余儀なくされることになった。

この頃から鳥井と竹鶴のスタンスの違いは明白になってきていた。本格的ウイスキーの国産化という基本目標は共通していたものの、酒蔵の息子として産まれた職人肌の技術者で、本場流スコッチウイスキーの再現に強くこだわる竹鶴の姿勢に、薬種問屋の丁稚上がりで広告戦略にも長けた経営者の鳥井は、必ずしも全面的賛同はしていなかったのである。

実のところ、鳥井は全く採算の取れないウイスキー事業を「身を削りつつ」維持し続けていた。当時の壽屋の主力商品「赤玉ポートワイン」(その後の赤玉スイートワイン)での収益は、その多くがウイスキー事業での赤字で損なわれ、サイドビジネスとして実績を上げつつあった喫煙者向け歯磨き粉「スモカ歯磨」の製造権・商標を売却してしのいだほどであった。この現実が竹鶴の理想論と合致しないのはやむを得ないことであった。

その失敗で得た経験を踏まえながら、鳥井は竹鶴に長男・鳥井吉太郎をウイスキー製造の責任者として、教育を任せると共に、休むことなく原酒の仕込みを続けてゆく。ピートの焚き方、蒸溜の仕方など試行錯誤を繰り返しながら、1932年(昭和7年)には「サントリー十年ウヰスキー 角瓶」を発売、1934年(昭和9年)の竹鶴の契約満了に伴う退社[注 1]を経て、鳥井はウイスキー製造の方針を根本的に改めることになる。それは、ウイスキーとしての十分な品質を達成しながら、日本人にも受け入れやすい味とし、なおかつ収益を上げられる商品の開発だった。1935年(昭和10年)には「サントリー特角」を発売し、徐々に手応えをつかんでゆく。
角瓶の発売と成功2015年2月に数量限定で販売された「サントリーウヰスキー12年 復刻版」。1937年に発売された味とデザインのボトルを再現している(ただし、細部は若干異なる)

「白札」から期間を置くこと8年、1937年(昭和12年)10月8日に、亀甲模様の瓶に黄色いラベルを添えた上級ウイスキー「サントリーウヰスキー12年」が発売された。のちに「角瓶」と呼ばれるウイスキーである。竹鶴主導での草創期から長らく貯蔵・蓄積された原酒をブレンディングベースに、鳥井の企画のもと、日本人好みの高級ウイスキーとして製造されたものであった。

鳥井が幾度もピートの炊き方を変え、原酒のブレンドを試行錯誤し完成させた原酒を東京・銀座のバーなどで店主にテイスティングしてもらいヒントを仰ぐなどの努力を重ね、誕生させたスモーキーな原酒が評価されると共に、かつ山崎蒸溜所で仕込み続けた原酒が熟成を迎えたことなどが功を奏し、これが失敗したら壽屋は倒産しかないという危機的状況下であったが、おりしも日本が戦時体制に突入しつつあり舶来ウイスキーが輸入停止になったこともあり、「角瓶」は好調に売り上げを延ばしてゆく。苦節を重ねた末、鳥井の初志がついに実現する運びとなった。損失を重ねていた壽屋のウイスキー事業は、この「角瓶」が軌道に乗ったことで抱えた損失を一掃するほどの成功を収める。

そして当時、日本海軍[注 2]への大量納入に成功、「海軍指定品」となったことも大きな助けとなった。巨大な軍需販路を得ただけでなく、軍需品という理由で統制厳しい太平洋戦争当時でも原料となる穀物等の供給を受けられたのである。なお角瓶は海軍だけでなく日本陸軍でも愛飲されており、一例として発売開始から約1年半後の1939年(昭和14年)5月、陸軍糧秣廠が関東軍野戦酒保用として大量に送付した嗜好品の品目の中に「サントリーウヰスキー(角瓶)」の名で四合瓶9,600本がある(「サントリーウヰスキー(丸瓶)」4,800本とともに)[5]

この勢いを駆って1940年(昭和15年)には、さらに上級のブレンデッド・ウイスキーオールド」を完成させたが、戦時下の折、当局より贅沢品と識別され販売許可は下りることなく、発売は戦後の1950年(昭和25年)まで遅れることとなった。

その間、角瓶はサントリーの最上級ウイスキーとして市場にブランドイメージを築いた。戦時中に陸海軍に従軍し戦地で「角瓶」に遭遇、日本製とは知らずにウイスキーの味を覚え、戦後に帰国して国産ブランドと知った出征者も多いという。
定番商品として定着専用ジョッキに入った「角ハイボール」

発売当時の名称は「サントリーウヰスキー12年」だったが、原酒の一部に12年物を使っていただけであり、スコッチなどの規準に比してもやや誇大気味の名称であることから、長くは使われていない。

一方、その特徴ある角型の瓶の形から、愛飲者の間でいつしか「角瓶」・「角」の愛称が定着し[4][注 3]1950年代に正式に「サントリー角瓶」と改称された。ただし1990年代まで、ボトルに「角瓶」の名称は付いておらず、単に「サントリーウイスキー」を称していただけであった。

原酒使用率が高いため、当時の日本の税制では特級ウイスキーの区分に含まれたが、高級酒扱いの「オールド」に比べ、やや求めやすい価格であったこともあって固定ファンを獲得し、定番商品として根強い支持を得ることになった。この間にも、蒸溜所の整備やサントリー自社によるグレーンウイスキー生産の開始などによって、品質やブレンディングの改良が継続された。

1989年平成元年)4月のウイスキーの等級廃止と税制改正に伴う日本でのウイスキー価格の大幅低下に伴い、1990年代以降は大衆酒と言って良い程度に価格が低下し[注 4]、国産大衆ウイスキーの市場で広く普及している。


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