サントメール_(パ=ド=カレー県)
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Saint-Omer



行政
フランス
地域圏 (Region)オー=ド=フランス地域圏
(departement)パ=ド=カレー県
(arrondissement)サントメール郡
小郡 (canton)小郡庁所在地
INSEEコード62765
郵便番号62500
市長任期)ブリュノ・マニエ
2008年 - 2014年
自治体間連合 (fr)fr:communaute d'agglomeration de Saint-Omer
人口動態
人口14 893人
2009年
人口密度908人/km2
住民の呼称Audomarois
地理
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯50度44分46秒 東経2度15分42秒 / 北緯50.746111度 東経2.261667度 / 50.746111; 2.261667座標: 北緯50度44分46秒 東経2度15分42秒 / 北緯50.746111度 東経2.261667度 / 50.746111; 2.261667
標高平均:m
最低:0 m
最高:27 m
面積16.4km2
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公式サイト ⇒http://www.ville-saint-omer.fr/
テンプレートを表示

サントメール (Saint-Omer)は、フランスオー=ド=フランス地域圏パ=ド=カレー県コミューン
地理

サントメールは、エール=シュル=ラ=リスから10km、県都アラスから80km離れている。

歴史的にはアルトワ地方に属し、フランドル地方及びフランドル・フランセーズとの境界に近い。カップ・エ・マレ・ドパル地域圏自然公園と接している。コミューンを北東から南西へ向け流れるアー川は、グラヴリーヌにて北海に注ぐ。最初の運河は1165年、フランドル伯ボードゥアン7世時代の工事で完成した。川はサントメールからグラヴリーヌ、そして海まで航行可能となり、中世のグラヴリーヌはサントメールの外港の役割を果たした。

北部郊外には水路網が発達しているユネスコ生物圏保護区ラムサール条約登録地のオードマロワ湿地(フランス語版)がある[1][2]
交通

道路 - A26
、県道642号線、942号線、943号線。車を用いればカレーベテューヌイープルから50kmである。

鉄道 - LGV北線がサントメール駅に通じており、パリからの直行で2時間かかる。TERアラス-リール-カレーブローニュ=シュル=メール路線も通る。

語源

サントメールとは、アウドマルス(Audomarus)に由来する。彼はクタンス出身でリュクセイユの修道士で、637年にテルアンヌの司教となった。彼はサン=ベルタン修道院を建て、その周囲にまちが発展していった。彼は667年か668年に亡くなり、遺灰はテルアンヌからノートルダム教会へ移され、以後彼の名でコミューンは呼ばれた。
歴史18世紀のサントメール都市景観を再現した図サン=ベルタン修道院の廃墟。1850年サントメールの緑地にあるフランス式庭園。ヴォーバンの城壁跡の下にあるノートルダム教会

サントメールは7世紀、シチュー(Sithiu、Sithieu、Sitdiu)の名で文筆家の書物の中に現れている。まちはアウドマルス指揮のもとつくられたサン=ベルタン修道院の周りで成長していた。ベルタンとは、アウドマルスの同志として働いた者の名である。10世紀から現在のサントメールとなった。カール大帝時代には、海港であったサントメールは海側からの侵攻にあっている。当時、海側のフランドル地方都市はカレーの一部も含め、まだ海の下にあった。

932年、まちはフランドル伯領となった。12世紀から13世紀、サントメールで織物産業が花開いた。大いなる繁栄の時代、中世コミューン機関から恩恵を受けた初期のまちであった。それはおそらく1070年代初頭である[3]。これらの機関は自助団体であり、兄弟会の形態が常態化され、商人組合がその後生まれた[4]。これらのコミューンはフランドル伯から3つの自由を授けられた[5]。その後、織物産業首位の座をブルッヘに明け渡すことになった。1165年からアー川をグラヴリーヌへ向けて掘った。泥の堆積がサントメールの外港で進行していたからだった。11世紀から12世紀のサントメール商人たちは組合を結成した[6]

1212年のポンタ・ヴァンダン条約でフランドル伯領からアルトワ伯領となった。サントメールを取り戻そうとしたフランドル伯フェランブーヴィーヌの戦いで敗北した。その後フランス化が始まり、公文書はフランス語で書かれ、フランドル語(フラマン語)は少なくとも住民の生きた言葉でなくなっていた。13世紀の年代記作家ギヨーム・ダンドレスは、当時の商取引はフランドル語だったと記している。サントメールは低地諸国の広範囲の経済網の中にあったが、公式には分離していた。1300年頃の人口は400人ほどに達していた[7]

1384年、サントメールはブルゴーニュ公国に組み込まれた。ブルゴーニュ公位はやがて神聖ローマ皇帝カール5世が継承した。彼の退位後、サントメールはスペイン支配化の代官区となった。15世紀の疫病流行では1500人の住民の命が失われた。16世紀のカトリックによる対抗改革により、サントメールの都市計画は宗教色が強められた。サントメールは、イングランドやワロン語地域からの多くのコレージュや神学校開設を歓迎した。1559年から1790年までサントメールにはカトリックの司教座があったが、1801年にアラス司教座に移管された。1678年のナイメーヘンの和約で、サントメールはフランスに割譲された。1678年以後、ヴォーバン指揮のもとでサントメールの防衛設備強化が行われた。

1848年に鉄道が敷かれたが、サントメールにまだ産業革命は起きていなかった。広場、タウンホール、学校が築かれ、大通り建設のため防衛設備が壊された。

2つの大戦でサントメールは甚大な被害をこうむった。第二次世界大戦ナチス・ドイツのフランス侵攻の過程では、1940年5月24日の夜、カレーを目指すドイツ国防軍装甲自動車部隊により突破、占領された[8]。1942年、ナチス・ドイツはサントメールにコンクリート製トーチカを建設した。この設備はもともとV2ロケット基地として築かれた。設備は連合国側の爆撃で破壊された。サントメールが解放されたのは1944年9月5日、ポーランド軍第1装甲師団(fr)によってであった。
経済

サントメール経済は水の周りで発展した。コミューン周囲に広がるオドマロワ湿地は農業や園芸農業、観光業の発展を支えてきた(特にカリフラワー栽培が有名)。サントメールにはビール醸造所が点在する。
史跡

サン=ベルタン修道院 -
ベネディクト会派によって建てられた。建物は16世紀完成のゴシック様式


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