サンデーサイレンス
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サンデーサイレンス
2000年9月、社台スタリオンステーションにて
品種サラブレッド
性別
毛色青鹿毛[† 1]
生誕1986年3月25日
死没2002年8月19日(16歳没)
Halo
Wishing Well
母の父Understanding
生国 アメリカ合衆国
生産者Oak Cliff Throughbreds Ltd.
馬主Gaillard & Hancock III
Charles Whittingham
Whittingham et al
吉田善哉
調教師Charles Whittingham
厩務員Charles Clay
競走成績
タイトルエクリプス賞・米国年度代表馬(1989年)
エクリプス賞・最優秀3歳牡馬(1989年)
米国・名誉の殿堂入り(1996年選出)
生涯成績14戦9勝
獲得賞金4,968,554ドル

勝ち鞍

G1サンタアニタダービー1989年
G1ケンタッキーダービー1989年
G1プリークネスS1989年
G1スーパーダービー1989年
G1BCクラシック1989年
G1カリフォルニアンS1990年
G2サンフェリペH1989年


繁殖成績
タイトル日本リーディングサイアー(1995-2007年)
日本BMS1位(2007-2018年)
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サンデーサイレンス(欧字名:Sunday Silence、1986年 - 2002年)は、アメリカ合衆国生まれの競走馬種牡馬である。

※文中の「GI級競走」は日本のパート1国昇格前および昇格後のGI競走とJ・GI競走、ならびに昇格後のJpnI競走を指す(詳細については競馬の競走格付けを参照)。
概要

1988年10月に競走馬としてデビュー。翌1989年アメリカ三冠のうち二冠ケンタッキーダービープリークネスステークス)、さらにブリーダーズカップ・クラシックを勝つなどG1を6勝する活躍を見せ、エクリプス賞年度代表馬に選ばれた。

1990年に右前脚の靭帯を痛めて競走馬を引退。引退後は日本社台スタリオンステーションで種牡馬入りし、初年度産駒がデビューした翌年の1995年から13年連続で日本のリーディングサイアーを獲得[3]。さらに中央競馬における種牡馬にまつわる記録を次々と更新した。サンデーサイレンスを起点とするサイアーラインは日本競馬界における一大勢力となり、サンデーサイレンス系とも呼ばれる。そのイニシャルから、SSと呼ばれることもある。

2002年8月19日に左前脚の蹄葉炎を原因とする衰弱性心不全のため、16歳で死亡。幼少期は見栄えのしない容貌と地味な血統ゆえに買い手がつかず、生命にかかわる事態に見舞われながら、競走馬、さらに種牡馬としても成功したその生涯は、しばしば童話『みにくいアヒルの子』(Ugly Duckling[4])に喩えられる[5][6][7][8]
生涯
生い立ち
誕生

サンデーサイレンスは1985年繁殖牝馬ウィッシングウェルと種牡馬ヘイローが交配された結果、翌1986年3月25日アメリカ合衆国ケンタッキー州にあるストーンファームで誕生した[† 2]。両者が交配された要因は、ニックスとされるマームードインブリード(4×5)が成立することにあった[10]

サンデーサイレンスの毛色は、生国のアメリカでは「黒鹿毛ないし青鹿毛(Dark Bay or Brown)[2]」となっているが、のちに輸入した日本では「青鹿毛[1]」と登録されている[† 3]
見栄えが悪く、売れ残る

幼少期のサンデーサイレンスは体格が貧相で、後脚の飛節[† 4]が両後脚がくっつきそうなくらいに内側に湾曲[† 5]しており[11]、それはゲイリー・ジョーンズ[† 6]が「まるでコートハンガーみたいな形をしていた」というほど酷いものだった[11]。ストーンファームの経営者アーサー・ハンコック3世は幼少期のサンデーサイレンスについて「脚がひょろ長くて、上体は華奢」であったと述べている[7][13]。さらに、幼少期のサンデーサイレンスの馬体はくすんだ鼠色をしており[7][11][† 7]、その容貌は、テッド・キーファー[† 8]がストーンファームを訪れた際に必ず「あの真っ黒いケダモノをどこかへやってくれ。まったく、あんなひどい当歳(0歳)馬は見たことがないぞ」「あのウィッシングウェルの当歳は目にするのも不愉快だ」と言って毛嫌いするほど見栄えがしなかった[16]

ハンコックによると、それでも前より良くなっているといくら言ってもキーファーは聞く耳を持たなかったといい、ある時にはキーファーがサンデーサイレンスに対して辛らつな言葉を浴びせていると、ストーンファーム牧場長のピート・ローガンが「ケンタッキーダービー馬のような一流の競走馬にも様々なタイプがいるものだ」と口を挟み、「まあキーファーさん、世の中わかりませんよ。この馬だっていつか(ケンタッキーダービー優勝馬に送られる)バラのレイが似合うようになるかもしれないじゃありませんか」と諭すと、キーファーは即座に「あのろくでなしにバラのレイが似合うのは、墓に入った後だけさ」と言い返したという[16]。また気性が激しく、扱いの難しい馬であった[17]

サンデーサイレンスは1986年11月27日サンクスギビング・デーの日にウイルス性の腸疾患にかかり[18]、数日にわたってひどい下痢を起こして生死の境をさまよった[11][12][19][20]。この時のサンデーサイレンスは液状の便が搾ったように出てくる日が何日も続き[12]、何人かの牧場スタッフと敷地内に住居を構える獣医のカール・モリソンが付き添い、失われた水分を補給するため何リットルもの点滴をひっきりなしに行ったもののなかなか回復しなかった。その後回復の見込みが立たずに怒りを抑えられなくなって仕事を投げ出したモリソンからは見放されたものの[11]、1日中23リットルもの点滴を続け、危機を脱した[18]

1987年ケンタッキー州で行われる世界的に有名なセリ市のキーンランド・ジュライセールに出品されたが、馬体の見栄えが悪かったサンデーサイレンスはセレクトセール[† 9]への出品が許可されず、一般部門に出品された[21]。サンデーサイレンスには1万ドルの値がついたが、安すぎると感じたハンコックは1万7000ドルで買い戻した。ハンコックは、サンデーサイレンスを買い戻したことをトム・ティザム[† 10]に報告し、買い取ってもらおうとしたが、ティザムは「所有する意思がない」と答えたため[† 11]、そのままハンコックが所有することとなった[21][22]。翌1988年3月、サンデーサイレンスはカリフォルニア州で行われたトレーニングセールに出品されたが、希望販売価格の5万ドルに届かず、3万2千ドルでふたたびハンコックに買い戻された[23][13][19][21]。さらにハンコックは複数の競馬関係者に購入の打診をしたものの、ことごとく断られた[13]

ハンコックはサンデーサイレンスをキーンランド・ジュライセールで買い戻した後、友人のポール・サリバンと半分ずつの持ち分で共有した[21]。その後サリバンは、カリフォルニア州のトレーニングセールで買い戻された時期に所有する競走馬の調教費と相殺する形で調教師チャーリー・ウィッティンガムに持ち分を売却し[21]、ウィッティンガムはそのうちの半分を友人の医師アーネスト・ゲイラードに売却した[21][† 12]

しかし、カリフォルニア州からケンタッキーに戻る帰り道の半ばで、サンデーサイレンスやその他のハンコックの所有馬を乗せた馬運車運転手が突然心臓発作を起こし、車が大きく傾きながら路肩を外れて横転する事故に見舞われた[20][21]。サンデーサイレンスは奇跡的に一命と競走能力を取り留めたものの、全身に無数の切り傷と打撲を負い[5][12][21]オクラホマ州の獣医病院に搬送されて2週間入院した[18][21]


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