サンディー・コーファックス
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サンディ・コーファックス
Sandy Koufax

基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地ニューヨーク州ブルックリン
生年月日 (1935-12-30) 1935年12月30日(86歳)
身長
体重6' 2" =約188 cm
210 lb =約95.3 kg
選手情報
投球・打席左投右打
ポジション投手
プロ入り1954年
初出場1955年6月24日
最終出場1966年10月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


シンシナティ大学(中退)

ブルックリン・ドジャース
ロサンゼルス・ドジャース
(1955 - 1966)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年1972年
得票率86.87%
選出方法BBWAA[:en]選出
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

サンフォード・コーファックス(Sanford Koufax, 1935年12月30日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ブルックリン出身の元プロ野球選手投手)。現在はMLBロサンゼルス・ドジャースでスペシャルアドバイザーを務めている。左投げ右打ち。

ニックネームは「The Left Arm of God」。
経歴

ニューヨーク州ブルックリンで、ユダヤ教徒の家庭に生まれる。出生時の名前はサンフォード・ブラウン(Sanford Braun)だったが[1]、3歳の時に両親が離婚し、母親が弁護士のアール・コーファックスと再婚したため「コーファックス」の姓を名乗るようになった[2]。彼は現役引退直後に出版した自伝の中で「私が父と呼ぶのは、アール・コーファックスのみである」と明言している。

少年時代から抜群の運動神経に恵まれ、当時はバスケットボールが得意であった。シンシナティ大学からバスケットボールで奨学金を得て進学する[2]。大学ではバスケット、野球の両方をプレイしていたが[3]、「君の投げる球は物凄く速い。野球に将来を賭けてみないか」と地元のブルックリン・ドジャースに口説かれ[2]1954年12月13日に契約する[1]。この時の契約金が4000ドル以上だったため当時MLBにて導入されていたボーナス・ルールにより契約から2年間特例でメジャーリーグロースターに入れたために、マイナーリーグで腕を磨く機会を得られなかった[3]

1955年6月8日故障者リストからロースター入りし、代わりに外されたのは、後の名将トミー・ラソーダだった[4]6月24日ミルウォーキー・ブレーブス戦でメジャーデビュー。8月27日シンシナティ・レッドレッグス戦では2安打14奪三振でメジャー初完投・初完封勝利を挙げた。

1958年は11勝11敗を記録したが防御率4.48、リーグワースト2位の105四球、リーグワーストの17暴投だった。

1959年8月31日サンフランシスコ・ジャイアンツ戦で当時のMLBタイ記録となる1試合18奪三振を記録[3]するなどリーグ3位の173奪三振。チームはブレーブスと同率で並び、プレーオフを制して移転後初のリーグ優勝。シカゴ・ホワイトソックスとのワールドシリーズでは第5戦に先発し、1失点完投と好投するが援護がなく敗戦投手。チームは4勝2敗で4年ぶりのワールドチャンピオンに輝いた。

1960年は開幕から1勝8敗と出足でつまづきチームメイトのドン・ドライスデールに次ぐリーグ2位の197奪三振を記録したものの8勝13敗、リーグワースト3位タイの100四球と制球難は相変わらずだった。

1961年は大学への復学を考えていたがスプリングトレーニングの際に捕手のノーム・シェリーから「なあ、今日は楽に投げてみないか。速い球で押しまくるんじゃなくて、カーブチェンジアップを増やしたりしてさ」というアドバイス[2]を受け、それをきっかけに制球難を克服し大きく成長する[3]。同年は自身初のオールスターゲームに選出されるなど18勝13敗・防御率3.52・269奪三振を記録し、クリスティ・マシューソン1903年にマークした267奪三振のリーグ記録(20世紀以降)を更新[4]して最多奪三振を獲得。

投手有利とされる新球場ドジャー・スタジアムが開場した1962年に一気に開花する。4月24日シカゴ・カブス戦で2度目の18奪三振。6月30日ニューヨーク・メッツ戦で自身初のノーヒッターを達成するなど前半戦で13勝4敗・防御率2.15・202奪三振を記録。その後故障で離脱するが、9月に復帰。チームはジャイアンツと熾烈な優勝争いを演じ、残り7試合の時点で4ゲーム差を付けるが、その後1勝6敗と失速して同率で並ばれ、3試合制のプレーオフにもつれ込む。初戦の先発を任されるがウィリー・メイズに本塁打を浴びるなど2回途中3失点で降板し敗戦投手。結局1勝2敗で敗れてリーグ優勝を逃した。同年は14勝7敗・防御率2.54・216奪三振の成績で最優秀防御率のタイトルを獲得した。

1963年5月11日の宿敵ジャイアンツ戦で自身2度目のノーヒットノーランを達成。フアン・マリシャルと並んでリーグトップの25勝(5敗)・防御率1.88、自身のリーグ記録を更新する306奪三振、リーグトップの11完封を記録し、最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の投手三冠を達成し、チームのリーグ優勝の原動力となる。ニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズでは第1戦に先発し、当時のシリーズ記録を更新する15奪三振で2失点完投勝利。第4戦でも無四球1失点完投勝利を挙げ、4連勝で4年ぶりのワールドチャンピオンとなり、シリーズMVPを獲得。オフにサイ・ヤング賞MVPをダブル受賞した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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