市旗市章
位置
位置
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赤い線で囲まれた区画はサンティアゴ区
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}南緯33度27分0秒 西経70度40分0秒 / 南緯33.45000度 西経70.66667度 / -33.45000; -70.66667
サンティアゴ・デ・チレ(Santiago de Chile)は、チリの首都。中央部の盆地に位置する。一般には単にサンティアゴ、またはサンチャゴと呼称する。首都機能を有するが、国会はバルパライソにある。南アメリカ有数の世界都市でもある。
歴史
植民地時代『サンティアゴの建設』 (≪La fundacion de Santiago≫) 、ペドロ・デ・バルディビアにより、1541年2月12日に市が建設された様子を描いている。ペドロ・リラ画(1858年)メトロポリタン大聖堂は、植民地時代の建築の中で最も代表的な建物の一つ。セロサンクリストバルで聖母マリアの像は、街の主要なシンボルの一つである。
サンティアゴは、1541年2月12日にスペイン人の征服者ペドロ・デ・バルディビアによりサンティアゴ・デ・ヌエバ・エクストレマドゥーラ (Santiago de Nueva Extremadura) 市として建設された。起工式はウエレン・イル (Huelen Hill) (現サンタ・ルシア・イル(スペイン語版)で行われた。バルディビアがこの場所に都市を建設した理由は、穏やかな気候と市中央部を横断するマポチョ川がマプーチェ族からの防衛線になるためであったといわれる。
最初の建築物は、チリ中部に居住していたインディオの部族の一つピクンチェ族の人々の協力で作られた。
マポチョ川の南部にある湿地は水が抜かれ、アラメダ (Alameda)(現アベニーダ・アラメダ・リベルタドール・ベルナルド・オイヒンス(スペイン語版)という遊歩道に変えられた。
独立後の結果、1818年にベルナルド・オイギンス、ホセ・デ・サン・マルティンらの活躍によりチリが解放されると、市南西部であったマイプーの戦いで若干の被害を受けたものの、サンティアゴは正式にチリ共和国の首都に指名された。
太平洋戦争に勝利すると、1880年代はペルー、ボリビアから併合したチリ北部で硝石が産出され、国が繁栄したことにより、首都サンティアゴも発展した。1930年代には、サンティアゴの近代化が始まり、チリ各地から人々が集まり、人口も増加した。1973年9月に起きたクーデターは映画「サンチャゴに雨が降る」 (1975年) でアジェンデ大統領誕生からの顛末が描かれる。1985年に地震が発生し、中心部の歴史的建造物が破壊された。1990年には、国会議事堂が約120km離れたバルパライソに移転している。
2019年10月18日、地下鉄料金値上げに抗議する学生らのデモが暴動に発展(チリ暴動 (2019年-2020年))。機動隊らが多数のデモ参加者を拘束したほか、地下鉄施設やスーパーマーケットなどが火炎瓶などで放火され死傷者が発生した[1]。
2020年5月、2019新型コロナウイルスの感染が拡大。国内における1日当たりの新規感染者数は2600人を超え、8割近くが首都圏に集中したことから、5月15日、政府はサンティアゴにロックダウンを行い外出を禁止する一方、約2000人分の墓地の設置を進めた[2]。