サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会
Basilica di Santa Maria sopra Minerva (イタリア語)
Basilica Sanctae Mariae supra Minervam (ラテン語)
ファサード(19世紀に完成)
基本情報
所在地 イタリア ローマ
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯41度53分53秒 東経12度28分42秒 / 北緯41.89806度 東経12.47833度 / 41.89806; 12.47833
サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会(ラテン語: Basilica Sanctae Mariae supra Minervam、イタリア語: Basilica di Santa Maria sopra Minerva)はイタリアのローマにある名義小バシリカで、カトリック教会のドミニコ会にとって重要な教会堂である。カンプス・マルティウスのミネルヴァ広場に面していて、ローマで唯一のゴシック建築の教会とされている[1]。この教会にはシエナのカタリナやドミニコ会の画家フラ・アンジェリコの墓がある。近代天文学の父ガリレオ・ガリレイは、隣接する修道院での異端審問後の1633年6月22日、この教会で自らの科学的命題を否認した。
この教会はエジプトの女神イシスの神殿の基礎の上(sopra は「上」の意)に建てられた。しかし、この神殿は間違ってミネルウァの神殿だとされていたため、現在のような名称になっている[2]。控えめなファサードの背後には、鮮やかな赤で塗られた肋材のヴォールトに金メッキの星をちりばめた青い天井があり、19世紀にゴシック様式で修復されたものである。すぐ側にはパンテオンがある。
Titulus Sanctae Mariae supra Minervam の現在の枢機卿は2001年からコーマック・マーフィー=オコーナーが務めている。 この教会と旧女子修道院の敷地の周辺には、古代ローマ時代にはグナエウス・ポンペイウスが紀元前50年に建てた女神ミネルウァの神殿 Delubrum Minervae、イシスを祀った神殿、セラピスを祭った神殿の3つの神殿があった[3]。ミネルウァの神殿の詳細は不明だが、最近の調査でこの教会からやや東にあるコッレッジョ・ロマーノ広場に小さな円形のミネルウィウムがあったことがわかった[2]。1665年、この教会に隣接するドミニコ会の修道院の庭からエジプトのオベリスクが発見された。他にも小さなオベリスクがこの教会周辺から見つかっており、Obelisci Isei Campensis と呼ばれていたが、これらはおそらく2本一組でイシスの神殿の入口前に立てられていたものと見られる[4]。内部 他の古代ローマの遺構として地下聖堂がある。廃墟と化した神殿をキリスト教会に転換したのは教皇ザカリアスの時代(741年 - 752年)で、これを東方の修道士に与えた[5]。このころの構造は現存していない。1255年、アレクサンデル4世がここに改宗した女性たちの共同体を創設したが、それは間もなくサン・パンクラツィオ教会
歴史
ドミニコ会は1280年からこの教会を現在のようなゴシック様式に改修し始めた。モデルとなったのはフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会で、設計はニコラウス3世のころドミニコ会修道士の Fra Sisto Fiorentino と Fra Ristoro da Campi が行った[2]。