サンタ・アナ_(エル・サルバドル)
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サンタ・アナ
Santa Ana


愛称 : La Ciudad Heroica(英雄の街)
位置
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}サンタ・アナ
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯13度59分 西経89度32分 / 北緯13.983度 西経89.533度 / 13.983; -89.533
歴史
建設
行政
エルサルバドル
  サンタ・アナ県
サンタ・アナ
人口
人口2016年6月30日現在)
  域225,600人
    人口密度  552.9人/km2
その他
ISO 3166-2SV-SA
公式ウェブサイト : ⇒http://www.santaana.gob.sv

サンタ・アナ(スペイン語: Santa Ana)はエルサルバドル北西部のサンタ・アナ県の県都。同名の地区(es)や司教区(es)の中心都市でもある。2016年の人口は22万5600人[1]で、国内3位の都市である。そして、国内第二の都市で、西部地域の主要都市でもあり、首都のサン・サルバドルからは65kmの距離にある。行政的には34のカントン(canton)、312の集落(caserio)に分けられ[2]、また中心都市(市街地区)のサンタ・アナは12地区(barrio)と多数の街区に分けられる[3]

7月17日から26日までの「7月の祝祭」期間には、県の守護聖人サンタ・アナをたたえて祭りが行われる[4]

この地には先古典期マヤの人々の考古学的痕跡が見られるが、街が建設されたのは5世紀から6世紀の間のことと考えられている。その後ピピル族の支配を受け、シウアテウアカン(Sihuatehuacan)と呼ばれた。16世紀にスペイン人によって征服され、後にAlcaldia mayor de San Salvadorの支配下に、その後Intendencia de San Salvadorの支配下に置かれた。スペインからの独立を果たした中央アメリカ連邦共和国期にはエル・サルバドール州(Estado salvadoreno)の一部を構成した[5]

1894年に44人革命(スペイン語版)が起き、カルロス・バシリオ・エセータ(スペイン語版)政権に対するクーデターを引き起こす原因となった。20世紀初頭のコーヒー黄金時代には、国内随一の豊かな街となった。そして1980年代にはエル・サルバドル内戦で大きな被害に見舞われた[5]。1992年にチャプルテペック休戦協定(スペイン語版)が締結され12年続いた内戦は終結した。21世紀が始まると、多くの犯罪集団が出現し、サンタ・アナは犯罪の増加に直面した。多くの都市部住民の郊外地区への移住が起き、新たな街区の建設が促進され、市街地が拡大していった。
歴史フィンカ・ロシータの構造物詳細は「es:Historia de la ciudad de Santa Ana」を参照
先コロンブス期

この地において先古典期には既に定住者が存在していた痕跡が認められる。それはフィンカ・ロシータ(スペイン語版)と呼ばれる考古学遺跡で、この地域を治める中心的位置にあった。このフィンカ・ロシータ遺跡やその他の遺跡は紀元250年に起こったとされるイロパンゴ湖の決壊によって放棄された[6]

街は先古典期マヤの人々によって建設されたが、この最初の名前は不明である。古典期早期(900年-1200年)にピピル族がこの地に移住し、「聖職者の土地」を意味するシウアテウアカン(Sihuatehuacan)と命名した。この場所はアパンテオス川とアパンチャカル川近くにあり、今日サンタ・バルバラと呼ばれる地区の中にある。1200年から1528年の間にこの地はいくつかあるクスカトラン領主(Senorio de Cuzcatlan)の支配地のひとつの中心地へと発展し、貢納都市からクスカトラン領の首都へと変貌した[7]
征服と植民地化

1528年ディエゴ・デ・アルバラード(スペイン語版)に率いられた兵士たちによって街は征服され、ディエゴ・デ・ウサグレに委ねられたサン・サルバドール州(Provincia de San Salvador)(スペイン語版)の一部を構成することとなった[8]。1540年にはディエゴ・デ・ウサグレが死去したため、アントニオ・ドカンポにエンコミエンダとして委ねられることとなった[5]

1569年6月26日グアテマラの司教ベルナルディーノ・ビジャルパンド(スペイン語版)によってシウアテウアカンという名称がサンタ・アナへ変更され、この街に最初の教区が創設され、今日カテドラルが建てられている場所に礼拝堂が建てられた[7]。また、1577年以来サン・サルバドール大判事管轄地(スペイン語版)の一部を構成した[8]

17世紀以降サンタ・アナ司祭管区の中心となり、18世紀初頭には大判事管轄地内の州中心地となった[9]。1786年から1824年までの間、サン・サルバドール管轄地(スペイン語版)を構成する県並びにサンタ・アナ司法管轄区の中心都市であった[5][7]
19世紀自由への記念碑

1806年サンタ・アナに自治体政府(ayuntamiento)がおかれることとなり、初代首長にホセ・マリアーノ・カストロが就任した[5]。5年後の1811年サン・サルバドル独立反乱(スペイン語版)が起き、自治体内でもまず11月17日に、次いで11月24日に暴動が起こった[10]。1812年villaの称号を受けた。

1821年12月21日自治体政府はスペインからの独立を宣言した[5]。1824年にはciudadの称号を与えられ、ソンソナーテ県に属すこととなり、1835年には同県の首都となった。1854年集落サンタ・ルシーア・チャカルシンゴ(スペイン語版)は独立した村落の地位を失い、サンタ・アナの一地区となった。翌年サンタ・アナ県が創設された[9]

19世紀末44人革命(スペイン語版)が勃発、今日のサンタ・アナ第2歩兵旅団宿営地から統治していたカルロス・エセータ(スペイン語版)を権力の座から引きずり下ろした。44人の反乱者はこの街の出身であったため、この時以来この地は「英雄の街」(La ciudad Heroica)という愛称を得た[11]。反乱者たちは政府本部を急襲、独裁者から国を開放するためのクーデターを起こした[7][12]


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