サンタローザ_(カリフォルニア州)
[Wikipedia|▼Menu]

サンタローザ
City of Santa Rosa

サンタローザ中心街の昔の役所広場
位置

カリフォルニア州におけるソノマ郡(左図)およびサンタローザの位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度26分55秒 西経122度42分17秒 / 北緯38.44861度 西経122.70472度 / 38.44861; -122.70472
歴史
市1868年3月26日
行政
アメリカ合衆国
  カリフォルニア州
 ソノマ郡
サンタローザ
City of Santa Rosa
市長スーザン・ゴーリン
地理
面積 
  域103.347 km2
    陸上  102.73 km2
    水面  0.61 km2
      水面面積比率    0.62%
標高50 m
人口
人口(2020年現在)
  域178,127人
  備考[1]
その他
等時帯太平洋標準時 (UTC-8)
夏時間太平洋夏時間 (UTC-7)
公式ウェブサイト : ⇒City of Santa Rosa

サンタローザ(: Santa Rosa)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州北部ソノマ郡の都市。同郡の郡庁所在地である。人口は17万8127人(2020年)。カリフォルニア州のワインカントリーでは最大、かつサンフランシスコ・ベイエリアではサンノゼサンフランシスコオークランドフリーモントに続く第5の都市である。
歴史ペタルーマ・サンタローザ鉄道の元の駅舎サンタローザ中心街の鉄道広場地区にある歴史的建物
設立と発展

サンタローザとなった地域におけるヨーロッパ人の初めての恒久的な入植地は、法律的にはマリアーノ・グアダルーペ・ヴァレホのものとされるカリーリョ家の家産であり、ヴァレホはソノマ(英語版)のプエブロとペタルーマ地域に入植していた。メキシコの統治下にあった1830年代、マリア・ロペス・デ・カリーリョの家族が、後にサンタローザ中心街となった場所の直ぐ東、ランチョ・カベサ・デ・サンタローザ特許土地に日干し煉瓦の家を建てた。しかし、カリーリョ家がその家を建てる前の1820年代に、近くのソノマなど南の開拓地から来たスペイン人とメキシコ人の開拓者が、この地域で家畜を育て、現在のサンタローザ・アベニューとソノマ・アベニューの交差点近く、サンタローザ・クリーク支流とマタンサス・クリークで家畜の解体を行っていたとされている。家畜の解体場所として使われたのでマタンサス・クリークと命名されたと推定されており、この水流はラ・マタンサと呼ばれるようになった。

1850年代には現在サンタローザ中心街となっている場所にウェルズ・ファーゴの交易所と雑貨屋が建設された。1850年代半ば、マリア・カリーリョの息子であるフリオ・カリーリョなど土地の有力者数人が、サンタローザの格子状道路配置を決め、その中心に現在は昔の役所広場と呼ばれる公共の広場を置いた。この中心街の格子配置は現在でも大半が残っている。

1867年、ソノマ郡がサンタローザを法人化都市として承認し、翌1868年、カリフォルニア州が公式に法人化を確認してソノマ郡では3番目の都市になった。既にあった都市は1858年法人化のペタルーマ市、および1867年法人化のヒールスバーグ市だった。

アメリカ合衆国国勢調査局の記録に拠れば、1850年にカリフォルニア州が州に昇格した後、サンタローザは当初の1850年代や1860年代初期にはペタルーマ市の後塵を拝していたが、着実に成長を続けていた。1870年国勢調査で州内で8番目に人口の多い都市となり、最大級に人口の多い郡の郡庁所在地となった。その後の成長と発展は決して急速ではなかったが、着実なものだった。

その結果、他の人口の多い地域が衰退したり沈滞している中でも成長を続けたが、1900年までにはサンフランシスコ・ベイエリア南カリフォルニアの新しい多くの人口中心に追いつかれあるいは追い越されていった。1905年、「列車の戦い」を報じる「プレス・デモクラット」の新聞記事に拠れば、サンタローザの人口はやっと1万人を超えたところだった。

1906年4月18日、サンフランシスコ地震が起こりサンタローザ中心街を実質的に破壊したが、人口そのものには大きな影響が無かった。しかしその後の期間もその付近の大半と同様に人口成長速度は大変遅かった。

1943年に有名な監督アルフレッド・ヒッチコックがスリラー映画『Shadow of a Doubt』をサンタローザで撮影した。この映画はビデオやDVDでも発売されており、1940年代のサンタローザを垣間見ることができる。映画に映っている中心街の建物の多くは、1969年9月の強い地震の後に建て替えられたのでもはや存在しない。しかし、でこぼこ石を使ったノースウェスタン・パシフィック鉄道駅舎や1910年に建設され金を被せた時計塔のあるエンパイア・ビルのように現在も残っているものがある。
第二次世界大戦後1910年に建設されたエンパイア・ビルはサンタローザのランドマークである。アルフレッド・ヒッチコック監督の映画スリラー映画『Shadow of a Doubt』にも登場した。

1945年に第二次世界大戦が終わり、その後の25年間、サンタローザは少なからぬ成長を遂げた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:114 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef