サンタクルス事件
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この項目では、東ティモール・ディリで起きた事件について説明しています。その他のサンタクルスについては「サンタクルス (曖昧さ回避)」をご覧ください。
サンタクルス墓地のセバスティアォン・ゴメスの墓

サンタクルス事件(サンタクルスじけん 葡語:Massacre de Santa Cruz)は、1991年11月12日インドネシア支配下の東ティモールディリで起きた大量虐殺事件。インドネシア国軍が、独立を求めるデモ行進を行っていた市民に対して無差別に発砲し、大量の死傷者を出した。サンタクルス虐殺や、ディリ事件(Dili massacre)とも呼ばれる。
概要ディリ市内の地図

1975年、当時の宗主国だったポルトガルと独立に向けて話し合いが進められていた東ティモールは、インドネシアによる侵攻を受け、1976年にインドネシアの27番目の州として併合が宣言された。それから、独立を求める住民に対し、インドネシアは弾圧を続けてきた。侵攻後の2か月間で約60,000人の住民が殺害されたとされ、インドネシアによる統治の間に全人口の4分の1から3分の1の人々がインドネシア国軍の犠牲になったといわれている。この比率は、第二次世界大戦後の世界における虐殺のなかでも最悪のものである[1]

1991年ディリで独立派の若者がインドネシア国軍の武装集団に殺害された。若者はサンタクルス墓地に埋葬されたが、殺害から2週間後の墓へ花を捧げる儀礼の際、参列していた群集が独立を求めるデモと化し、インドネシア国軍が群集に向かって発砲した。また、発砲などで負傷した市民も軍によって病院などに運ばれた上で殺された。事件の様子は映像などで海外で伝えられ、東ティモールの独立を求める国際世論は大きな高まりを見せた。
経緯
背景
東ティモールの部分的開放

1980年代後半から高まり始めた、東ティモールの独立を求める国際世論に、インドネシアは方向転換せざるをえなくなった。また、独立派の武装組織ファリンティルの掃討を続けてきたインドネシア国軍内部にも、強硬路線に行き詰まりを感じる声が広がり、懐柔作戦への方向転換が為されたが、独立運動の鎮静化はできなかった[2]。このような背景からインドネシア政府は、1989年1月1日より東ティモールを他州並みに開放するという政策を実施した。部分的開放は13県のうち、国軍が治安に自信をもてない東部5県を除く8県で実施され、インドネシア人と東ティモール人の往来が基本的に自由となった。しかし、往来の制限や検問は頻繁に行われ、外国人は許可なくして訪問できないままだった[2]

1989年10月、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が東ティモールを訪問した。バチカンは、ポルトガルの東ティモール撤退から、東ティモールをインドネシアの教区ではなくバチカンの直轄区としていた。インドネシアは、法王の訪問をインドネシアと教区を統合するための契機と捉えていた[3]。逆に東ティモールの若者たちは、これを独立アピールの格好の舞台と捉えたのだった。法王はインドネシア国軍による住民虐殺地として有名なディリ郊外のタシトルで約10万人を前にミサを行った。ここで、約20人の若者が横断幕を掲げて祭壇前に迫り、治安当局に鎮圧された[4]。また1990年1月17日には、ディリを訪問していたアメリカ合衆国のジョン・モンジョ駐インドネシア大使が宿泊していたホテルに、80人から90人の若者が押しかけ、拡声器を使って約1時間の対話を成功させるなど、次々と国際社会にアピールをしかけた[5]
ポルトガル議員団訪問中止

ポルトガルは、1975年のインドネシアとの国交断絶後、国交のない状態が続いたが、1982年の国連総会決議に基づいたハビエル・ペレス・デ・クエヤル国連事務総長の仲介で、ポルトガルとインドネシアの外相による交渉が行われた。しかし、東ティモール人の自決権の行使を求めるポルトガルに対し、インドネシアは自決権は既に行使されたと譲らず、ポルトガルとインドネシアの交渉は平行線を辿った。ポルトガルの主張は、ポルトガルが東ティモールの施政国でありインドネシア国軍の撤退を求めた国連決議に沿ったものだったが、インドネシアとの関係悪化を避けたい欧米日豪の主要国がインドネシアを支持、ないしは消極的立場をとったことから、インドネシアは国連決議を無視しつづけることができた[6]

交渉は、1980年代末にポルトガル議員団の東ティモール訪問を信頼醸成措置として実施することに収斂していった。1991年8月、これが合意に達し、インドネシア国会を招待者として、訪問は少なくとも11月4日までに実施されることが決定した。東ティモールでは、議員団に同行する報道関係者や国連スタッフに独立のアピールができることから、大きな期待を寄せられた。一方のインドネシア政府は、高揚する独立運動を国際社会に印象付けることを警戒した[6]

しかし、インドネシア政府は、突然、議員団に同行するポルトガル人記者2人とオーストラリア人記者1人について異議を唱えた。交渉でポルトガル人記者2人については同行を認めたが、オーストラリア人記者については認めなかった。同行を拒否されたジル・ジョリフは、東ティモール問題のエキスパートで、当時のリスボンの外国人特派員協会会長を務めていた[7]。ポルトガル政府は、ジャカルタを経由して東ティモールに入るという訪問ルートについても、インドネシア統治を既成事実化するとして難色を示していたが、渋々受け入れていた[7]10月25日、ポルトガル政府は、表現の自由は譲れないとして、訪問の中止を発表した。
事件の発生
モタエル教会襲撃事件モタエル教会

ポルトガル議員団の訪問による独立派デモを警戒していたインドネシア政府は、諜報活動と暴力集団の培養による弾圧を実施した[8]。特に、インドネシア国軍兵士を中心に組織した覆面の統合派武装集団「ニンジャ」は、夜に出歩く若者を襲ったり、活動家を暴行、家を破壊するなどしていた。ディリにあるモタエル教会は、ローマ法王の訪問以降、こうした軍の迫害を逃れた若者たちが身を隠していた[9]。10月後半になると、モタエル教会は毎晩のようにオートバイの集団に囲まれ、嫌がらせを受けるようになった[9]

議員団の訪問中止がされて数日後の10月28日午前2時ごろ、「ニンジャ」が、独立派の若者30人ほどが身を隠していたディリのモタエル教会を襲撃し、独立派の若者セバスティアォン・ゴメスと、アフォンソ・ランジェルを殺害した。10月29日、モタエル教会で開かれた葬儀には数千人が集まり、独立運動を行っていたカルロス・フィリペ・シメネス・ベロ司教がミサをとり行った。その後、ベロ司教を先頭にサンタクルス墓地まで葬儀の行進が行われた。この際、若者らが「セバスティアォン万歳」「東ティモール万歳」などと叫んだが、軍は静観しているだけだった[10]

議員団訪問中止を受けて、予定されていたはずのデモは、11月11日国連人権委員会の拷問に関する特別報告者ペーテル・コーイマンスが東ティモールを訪問することから、翌11月12日のセバスティアォンの死後2週目のミサの後にデモを行うことが決定し、独立派の指導者だったシャナナ・グスマン(後の東ティモール初代大統領)の了承を得て決定した[10]

東ティモールでは、人の死後1週間目に「苦い花」を、2週間目に「甘い花」を墓に捧げる習慣がある。セバスティアォンについては「苦い花」の儀式は行われず、11月12日に「甘い花」の儀式のみが行われた[11]。11月12日のミサは、6時にモタエル教会で始まり、7時過ぎに終了した。参列者はサンタクルス墓地へ向けて行進をはじめ、約3,500人の群集に膨れ上がった。


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