サンジャル
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アフマド・サンジャル

玉座に座るサンジャル(1307年にイルハン朝の宮廷で描かれたミニアチュール)
大セルジューク帝国のスルターン
在位期間
1118年4月18日 ? 1157年5月8日
共同統治者マフムード2世
(1118年 ? 1131年)
ダーウード
(1131年 ? 1132年)
トゥグリル2世
(1132年 ? 1134年)
マスウード
(1134年 ? 1152年)
マリク・シャー3世
(1152年 ? 1153年)
ムハンマド2世
(1153年 ? 1157年)
先代マフムード1世
ホラーサーン王
在位期間
1097年 ? 1118年
先代ムハンマド・タパル
次代-

出生1086年11月6日
シンジャール
死亡1157年5月8日(1157-05-08)(70歳)
メルヴ
父親マリク・シャー
母親Tajuddin Safariyya Khatun[1][2]
配偶者トゥルカン・ハトゥン
アブハズィーア・ハトゥン
子女
マー・イ・ムルク・ハトゥンなど
信仰スンナ派
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アフマド・サンジャル(ペルシア語: ???? ????‎; Muizz ad-Dunya wa ad-Din Adud ad-Dawlah Abul-Harith Ahmad Sanjar ibn Malik-Shah、1086年11月6日 - 1157年5月8日[3]とは、セルジューク朝君主スルターン)である(在位:1118年4月18日 ? 1157年5月8日)。1097年から1118年までホラーサーンを支配し[4]、1157年に亡くなるまでスルターンの地位に就いた。

メルヴ(現在のトルクメニスタン)を首都とし、イラン中央アジアの各地で遠征を行った。彼の死によって、いわゆる「大セルジューク朝」は実質的に滅亡する[5]
生涯
若年期

1086年11月6日にイラク北西部の町シンジャールでサンジャルは誕生した。文献には出生地にちなんで「サンジャル」の名前が付けられたと記されているが、東洋史学者のボスワース(英語版)はサンジャルはテュルクの言語に由来する名前であり、「貫く者」「刺す者」を意味する言葉とする説を立てている[4]

サンジャルの父はセルジューク朝のスルターン・マリク・シャーであり、彼は兄弟のバルキヤールクマフムードムハンマド・タパル、甥のマリク・シャー2世によるマリク・シャー死後の後継者争いに参加した。サンジャルの母親はテュルク系の側室であり、後継者争いでは同母兄のムハンマド・タパルに協力していた[6]

1097年にサンジャルは兄のバルキヤールクに従ってホラーサーン地方のバルフに遠征し、この地に駐屯して周囲の勢力と戦った[7]。若年のサンジャルはアタベク(後見人)の保護下に置かれていたが、積極的に前線に立って戦っていた[4]ガズナ朝の援助を受けたムハンマド・イブン・スライマーンの反乱を平定し、1098年にトハーリスターンを支配するセルジューク朝の王子ダウラトシャーを破った[8]。サンジャルがトハーリスターンで勢力を確立するにつれて、彼とバルキヤールク配下のホラーサーン総督ハバシュとの関係が悪化し、1100年にバルキヤールクはハバシュの要請に応えてバルフのサンジャルを攻撃した[9]。サンジャルはバルキヤールクたちとの戦いで勝利を収め、ホラーサーンの支配権を掌握する[9]
ホラーサーンの統治

1101年/1102年にサンジャルはバルキヤールクとの戦いに敗れたムハンマド・タパルをホラーサーンに迎え入れ、レイに進軍するが、サマルカンドを支配する西カラハン朝の君主ジブラーイールがサンジャルが不在にした隙を突いてホラーサーンに侵入し、テルメズを占領する事件が起きる[9]。サンジャルは遠征から引き返してジブラーイールを捕らえ、処刑した後サマルカンドを攻撃し、1101年/1102年にカラハン朝の王族ムハンマドを傀儡の君主に据えた[9]

1100年からバルキヤールクとムハンマド・タパルの間で5回にわたる戦闘が行われていたが、1104年1月に和約が結ばれ、イラン中央部をバルキヤールク、アゼルバイジャン、アルメニア、イラク北部をムハンマド・タパル、ゴルガーン、ホラーサーン地方をサンジャルが統治する取り決めがされた[6]。1104年12月にバルキヤールクは没し、[6]彼の次男のムイズッディーン・マリク・シャーがスルターンの位を継承した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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