オーストリア継承戦争、七年戦争の将軍については「クロード=ルイ (サン=ジェルマン伯爵)」を、ナポレオン戦争の将軍については「アントワーヌ=ルイ・デクレスト・ド・サン=ジェルマン
(英語版)」をご覧ください。サンジェルマン伯爵(サンジェルマンはくしゃく、フランス語: Comte de Saint-Germain フランス語発音: [k??t d? s?? ???m??]、1691年あるいは1707年? - 1784年2月27日)は、18世紀のヨーロッパを中心に活動したと伝えられる人物である。 スペイン王妃マリー=アンヌ・ド・ヌブール (Marie-Anne de Neubourg) と貴族メルガル伯爵 サン・ジェルマンは1746年まで作曲家兼ヴァイオリニストとしてロンドンで過ごした。1745年末に短期間投獄された為、ロンドンを去ったと言われる[2]。その後12年間の活動については確認されてはいないが、化学と錬金術の研究の為にドイツで隠棲していたとする説、また、インドやチベットまでを含む世界旅行に出ていたとする説がある。後者の説についてはそのことを証拠づける史料は皆無だが、東洋世界について非常に博識であったことは事実である。 1758年の初めにパリへと移り、王の営繕官 (directeur des Batiments du Roi) を務めていたマリニー侯爵に対し、研究室及び作業場として王族の所有施設の使用許可を要請する書状を出している。この中で、その交換条件としてルイ15世に「人類が知る中で最も豊かで希有な発見」をもたらすと約している。そこでマリニーは、当時無人となっていたシャンボール城を彼に宛てがい、サン・ジェルマンはこの城とその付属施設に助手や使用人達を住まわせて、研究室も設けた。 だがサン・ジェルマンはシャンボールよりはパリに居ることの方が多かった。ポンパドゥール公爵夫人に面会し、夫人の紹介により王ルイ15世とも面識を得ている。王はその聡明な人柄に魅了され、以後両者は親しい関係を結ぶこととなった。 サン・ジェルマンは王と親しい関係を結ぶが、ルイ15世の重臣ショワズール公爵 (duc de Choiseul) が彼を疎み、その信頼を貶めようと策を巡らせた。ショワズールはゴヴ (Gauve) と云う名の道化を雇ってサン・ジェルマンに変装させたという。ゴヴはサン・ジェルマンの風体で各地のサロンに顔を出し、ありそうもないほら話を吹聴した。アレクサンダー大王と杯を交わしたであるとか、イエス・キリストに恐るべき末期を予言された、などといった大言壮語である[3]。 程無くしてゴヴの活動は露見し、その正体が明かにされることとなった。ショワズールの企みはサン・ジェルマンをペテン師に貶めることにはならず、むしろ逆にその威光を増すこととなり、一層ミステリアスなオーラを与えることとなった。 ショワズールは1760年になって漸く、サン・ジェルマンをスパイ容疑で告発することによって宮廷から厄介払いした。この結果、サン・ジェルマンは名誉を著しく損なわれてオランダへと逃れることとなった。これ以降、サン・ジェルマンの足跡は、イギリス、イタリア、ロシア、ザクセン及びプロイセンなどヨーロッパ各国で確認され、様々な地で、顔料と色彩についての自身の研究を披露しようとしたことが分かっている。 1766年、プロイセンの王フリードリヒ2世の庇護を受けるも、翌年ここを発ってバルト海に面したゴットルプへと至り、最後はヘッセン (Hessen) の領主の下に身を寄せた。そして1784年2月27日にこの地で亡くなったという。親しい関係を保っていた当の領主によれば、享年93歳であったと伝えられている。しかしこの死に関しては、後述の様に様々な伝説がある。 サン・ジェルマンには様々な噂が付き纏ったが、生前に敢えてそれを否定しなかったこともあり、類稀なる特異な人物として歴史に名を残すこととなった。彼が人類普遍の夢である不死の象徴として語られることも、こうした伝説の流布を助長したと考えられる。以下はそうした伝承の代表的なものである。 彼は、沢山の宝石を散りばめた豪華な衣装に身を包み、普段は丸薬とパンと麦しか口にせず、ギリシア語、ラテン語、サンスクリット語、アラビア語、中国語に加えて仏・独・英・伊・葡・西の数か国語に堪能であったと言われる。
生涯
出自
シャンボール城の化学実験室
ルイ15世の寵愛とショワズールの関係
死因
伝説の数々・不死伝説
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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