サンゴバン
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サンゴバン
Saint-Gobain SA

種類公開
市場情報Euronext: SGO
本社所在地 フランス クールブヴォア
設立1665年
業種ガラス・土石製品
事業内容建築材料製造販売、ガラスセラミックスプラスチック研磨剤容器
代表者Pierre-Andre de Chalendar (CEO), Jean-Louis Beffa (取締役会会長
売上高438億ユーロ (2008年)[1]
営業利益 28億1400万ユーロ (2008年)[1]
純利益 13億7800万ユーロ (2008年)[1]
従業員数209,180名 (2008年)[1]
外部リンク ⇒www.saint-gobain.com
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サンゴバン株式会社
種類株式会社
市場情報非上場
本社所在地 日本
102-0083
東京都千代田区麹町三丁目7番地
代表者代表取締役 フランシス・ショレー
資本金9億5700万円
売上高176億1700万円
(2023年12月期)[2]
営業利益27億1100万円
(2023年12月期)[2]
経常利益29億5400万円
(2023年12月期)[2]
純利益18億2900万円
(2023年12月期)[2]
総資産167億4600万円
(2023年12月期)[2]
決算期12月末日
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サンゴバン(フランス語: Saint-Gobain S.A.、Euronext: SGO )は、フランス・パリ近郊のラ・デファンスに本社を置き、各種建築材料や高機能材料を製造する多国籍企業。建材ではアルセロール・ミッタルについで石膏生産高が高い。高機能材料では放射線検出器の重要な部品プラスチックシンチレータで世界的シェアを誇る。ユーロネクスト・パリに上場しており、CAC 40の構成銘柄の一つとなっている。
歴史

1665年ルイ14世の治世に国策会社としてパリで創業、創業当初はを製造していた。スペイン継承戦争のときにスイス銀行による救済を受けたが、ロレーヌ地域圏の経済史に刻まれることになった。フランス革命によるユダヤ人解放により、ストラスブール資本の流入が必至となった。20世紀初頭には国際金融市場の発展にともない、海外へ積極的に進出した。その目的で、1904年に結成された7カ国間の板ガラスカルテルに加入していた。戦間期の潮流にあっては自動車の窓ガラスを製造した。第二次世界大戦中は参戦国がウランを求め、鉱業目的の地質調査が地の果てまで及んだ。結果として戦後はウランと貴金属を主眼に鉱業が躍進をとげ、同時にガラスの原料となる非金属も生産量を著しく増やした。国際金融市場が情報革命を本格化させる1968年、ライバル企業のBSN からパリバラザードなどを後ろ盾に敵対的買収を仕掛けられた。ポンタ=ムッソンとの合併により買収を免れ(ポンタ=ムッソン#鉄鋼業を参照のこと)、やがて光ファイバーの時代がやってきて脚光を浴びた。
1665年 - 1789年

サンゴバンの前身である Manufacture royale de glaces de miroirs は、フランスの財務総監ジャン=バティスト・コルベールの唱える重商主義に沿って創設された。コルベールの方針は何よりもまず、王ルイ14世と国家の栄光を保つため、王国の経済と財政を立て直すことであった。彼の経済財政政策は、フランスがヨーロッパの他の重商国家と対向できるようにするため、戦略的産業を強く生産的に育成することを指向していた[3]

17世紀中ごろ以降、絹織物、レース、鏡といった贅沢品の需要が高まっていた。1660年代には、上流階級の間で鏡の人気が非常に高くなった。イタリア製飾り棚、舞踏室、城、豪華なサイドテーブルやピアーテーブルは、この高価で贅沢な製品で飾られた。しかし当時フランスでは、鏡の製造技術が未熟だった。当時、ガラス製造といえばヴェネツィアが世界をリードしていた(ヴェネツィアン・グラス)。

17世紀初頭から、ヴェネツィアはガラスおよび鏡の市場を技術的にも経済的にも独占し、高品質の製品を生み出していた。コルベールはフランス国内の贅沢品の需要を国内で賄いたいと考えていた。さらに彼は贅沢品市場が国家経済の強化に繋がる可能性を認めていた。そこで彼はガラスおよび鏡の製造を行う公共企業 Manufacture royale de glaces de miroirs を1665年10月に創設した。この企業は資本家でオルレアンの徴税権保持者でもある Nicolas du Noyer に20年間の独占権を与えるものだったため、非公式に Compagnie du Noyer とも呼ばれ、国家がその資金の一部を提供した。

イタリアの鏡産業と対抗するため、コルベールはヴェネツィア出身の職人を集め Manufacture royale de glaces de miroirs で働かせた。間もなくフランスで製造した鏡はヴェネツィアの製品と対抗できるようになった。フランスで製造した鏡は長さが1m強で、当時としては印象的な大きさだった。フランスとヴェネツィアの競争は熾烈を極め、ヴェネツィアではガラス職人が余所の土地、特に外国に移ってガラス製造を営むのは犯罪とみなすようになった。

約20年後の1683年、同社は国との契約をさらに20年間延長した。しかし1688年、Compagnie Thevart が国の財政支援を受けて創業し、Compagnie du Noyer の独占状態は23年で終わりを迎えた。Compagnie Thevart も鏡とガラスを製造する企業であり、新たな製法を使って1.5m以上の長さで幅が1m程度の板ガラスを製造できた。これは Compagnie du Noyer の1mのガラスよりも大きい。

約7年間、両社は熾烈な競争を繰り広げたが、1695年に景気が悪化し、両社の技術的および経済的競争は逆効果となった。国の命令によって両社は合併することになり、Compagnie Plastier となった。

1702年、Compagnie Plastier はたった7年で倒産した。1695年の合併は、もともと財政状態の悪化した2社を合併させたもので、両社を救済できなかった。しかし、フランス系スイス人プロテスタントの銀行家が救済の手を差し伸べ、会社を救った。社名を再び変更して Compagnie Dagincourt として再出発することになった。

スイスの銀行家の庇護の下で、Compagnie Dagincourt はフランス王室から特許権を得て、他の企業から時に激しい抗議があったにもかかわらず、フランス革命までガラス製造を独占し続けた。
1789年 - 1910年

1789年、フランス革命が勃発し、Compagnie Dagincourt に与えられていた独占権は無効となった。同社は部分的にフランス国家の制御下にとどまったが、個人投資家の資本参加が必須な状況となった。

産業革命において同社は環境の変化に直面した。創業当時から、同社はフランスでの独占の恩恵を受け、技術的にもヨーロッパで対抗できる企業はほとんどなかった。1820年代、相変わらずアンシャン・レジームのころと同様の体質で、贅沢品市場向けの高品質な鏡とガラスを生産していた。1824年、フランスアリエ県のコマントリで新たなガラス製造業者が創業。ある程度の品質の鏡とガラスはもはや贅沢品ではなく、庶民が入手できるものになった。サンゴバンはガラスと鏡の産業としての未来は大衆化にあることを認識し、特に低い品質の鏡やガラスが建設業で大量の需要があり、大きな成長が見込めることがわかった。同社は戦略を見直し、低品質のガラスや鏡を製品系列に加えるようになった。

サンゴバンの戦略が変化したころ、その法的状態と財政状態も変化した。1830年、ルイ・フィリップが新たに王となったころ、サンゴバンは Public Limited Company となった。Compaigne de Glace はとうとう国家から完全に独立したのである。

1830年以降、サンゴバン社内の変化は会社機能の単なる調整以上のものだった。成長する世界経済に適応するための抜本的改革が行われた。1850年から1870年にかけて、世界の鏡製造量は毎年9%ずつ増加していった。工業化された都市の中心部は急激に成長・拡大し、建築革命をもたらした。集合住宅では、狭い室内を広く感じさせるために鏡を使った。1850年代から1860年代には、通りに面した店舗が大きなガラスを使ったショーウィンドウを採用し始めた。

鏡が主要な事業だったが、サンゴバンは製品ラインを拡大していった。天窓などの建築用ガラス、厚い鏡、窓ガラスなどである。これらの製品は鉄枠とともに19世紀後半の装飾を形成した。このころサンゴバンの製品を使った有名な建築物としては、ロンドンの水晶宮パリ植物園グラン・パレプティ・パレミラノ中央駅、フィラデルフィアやシドニーやニューヨーク等々の建築などがある。


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