サングラーム・シング
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サングラーム・シング
Sangram Singh
メーワール王
サングラーム・シング
在位1508年 - 1528年
戴冠式1508年5月4日
別号マハーラーナー

出生1482年4月12日

死去1528年1月30日
カールピー
子女ラタン・シング2世
ヴィクラマーディティヤ・シング
ウダイ・シング2世
王朝シソーディヤー朝
父親ラーイ・マル
宗教ヒンドゥー教
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サングラーム・シング(Sangram Singh, 1482年4月12日 - 1528年1月30日)は、北インドラージャスターン地方メーワール王国の君主(在位:1508年 - 1528年)。ラーナー・サンガー(サンガ、サーンガーとも、Rana Sanga)とも呼ばれる。
生涯
王位継承まで

1482年4月12日メーワール王国の君主ラーイ・マルの息子として誕生した[1][2]

1508年、父ラーイ・マルが死亡したことにより、サングラーム・シングが王位を継承した[1][2]
マールワーの征服

王位継承後、サングラーム・シングは中央インドマールワーに目を付けた[3]

当時、マールワー・スルターン朝がマールワーを支配していたが、東部マールワーの強力なラージプートの宰相メーディニー・ラーイが君主マフムード・シャー2世に代わって実権を握っていた[3]。マフムード・シャー2世は彼に対抗するため、ローディー朝デリー・スルターン朝)のイブラーヒーム・ローディーグジャラート・スルターン朝バハードゥル・シャーから支援されていた[4]

マフムード・シャー2世はグジャラート・スルターン朝に、メーディニー・ラーイはサングラーム・シングに援助を求めた[5]。サングラーム・シングはマールワー・スルターン朝で起こったラージプートの反乱に参加、1519年にはマールワー・スルターン朝とグジャラート・スルターン朝の軍勢を破った[5][6]。他方、この間にデリー・スルターン朝の軍勢がメーワール王国に侵入してきたが、これもガドリー破った[5]

サングラーム・シングは幾度かの戦闘でマールワー・スルターン朝の軍勢を完全に破った。マフムード・シャー2世は捕虜にされメーワール王国の首都チットールガルに連行されたものの、息子やほかの捕虜をチットールガルに残すことで解放された[5]

こうして、サングラーム・シングはマールワーを支配下に入れた。
デリー・スルターン朝への勝利

マールワーを征服したのち、サングラーム・シングは北西ラージャスターン地方へ軍を向けた。当時、この地域はデリー・スルターン朝、イブラーヒーム・ローディーの支配下にあった。サングラーム・シングはこれらの地域にデリー・スルターン朝への反乱を起こさせたのち、侵略した。

1517年から1518年にかけて、ローディー朝の軍勢はラージプートの城塞グワーリヤルを包囲していた。だが、このサングラーム・シングの侵攻に、ローディーは唖然とし、1518年から1519年までメーワールと戦端を開いた。

だが、サングラーム・シングは幾度かの戦いでローディーに勝利し、ラージャスターン方面の領土を奪ったばかりか、その軍事的影響力をアーグラにまで伸ばした[7]。ローディー朝はラージャスターン地方における領土をほとんど失い、さらにはアーグラまで脅かされることになり、手痛い打撃を被った。

サングラーム・シングはランタンボールなどを含む様々な要衝を占領したものの、彼はこれらの戦いで左腕を失い、足一本を不自由になった。

その後すぐ、1520年にサングラーム・シングはグジャラート・スルターン朝とも戦ったが、これにも勝利している[6]
バーブルとの戦いカーヌワーの戦い


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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