このページのノートに、このページに関する議論があります。(2020年8月)
議論の要約:記事名について
サロン・ド・パリ(フランス語: Salon de Paris)は、フランスの王立絵画彫刻アカデミーが18世紀にパリで開催するようになった公式美術展覧会。その後、フランスの政体が変わりながらも1880年までアカデミーまたは政府によって開催されたので官展ともいう。1881年以降は、フランス芸術家協会が開催する民間のサロンに引き継がれた。 サロンの起源は、王立絵画彫刻アカデミーが、会員に作品を展示する展覧会を開いたことにあり、1737年以降ほぼ定期的に、ルーヴル宮殿のサロン・カレ(方形の間)で展覧会を開催したことから名付けられた。当時はロココ美術全盛の時代であり、フランソワ・ブーシェらが活躍していた。1745年、ロココ美術の余りに官能的な描写の氾濫に対する危惧もあって、アカデミーの改革が行われ、不適切な作品は投票で排除するというサロンの審査制度が明確化された。18世紀後半になると、徐々に新古典主義的な作品が奨励されるようになり、1785年のサロンにジャック=ルイ・ダヴィッドが『ホラティウス兄弟の誓い』を出品したことで、新古典主義は完成の域に達した。 1789年にフランス革命が起きると、サロンに出品できるのはアカデミーの正会員と準会員に限られないことになり、公募制がとられた。当初は無審査の自由サロンであったが、出品数の激増によって運営が困難になったことから、1798年から審査制度が行われた。審査制度が行われたことによって、画家たちはアカデミーの主流である新古典主義に沿った作品を提出しようとし、19世紀を通じて、新古典主義はサロンの規範となった。新古典主義の正統を受け継いだのが、1824年のサロンで『ルイ13世の誓い』が成功したドミニク・アングルであった。これに対し、テオドール・ジェリコーが1819年のサロンに『メデューズ号の筏』を出品し、ウジェーヌ・ドラクロワが1824年のサロンに『キオス島の虐殺』を出品するなど、新古典主義に対立するロマン主義の潮流も生まれた。 ルイ・フィリップによる7月王政で、1833年から、しばらく隔年開催となっていたサロンは毎年開催となり、展示作品を3000点超まで増やすといった改革が行われ、芸術の大衆化が進んだ。サロンは、新興市民階級に買手を求める画家にとっての商品展示場としての性格を強めた。新古典主義とロマン主義の中庸派に立つオラース・ヴェルネやポール・ドラローシュも活躍した。 2月革命後の短い第二共和政では、サロンの民主化が行われ、1848年のサロンは無審査とされたが、玉石混交を招き、1849年から審査制度が復活した。そうした中、ギュスターヴ・クールベやジャン=フランソワ・ミレーといった、庶民の生活を描く写実主義(レアリスム)の画家がサロンに登場してきた。 ナポレオン3世の第二帝政の時期には、ジョルジュ・オスマンによるパリ大改造によって、パリはヨーロッパ最先端の文化都市となり、サロンが社会的行事として定着し、美術批評もさかんになった。画家が作品を売るためには、サロンでの成功が不可欠であった。サロンの審査委員は、画家による選挙と美術行政による任命によって選ばれていたが、結局はアカデミー会員が多くを占めたため、審査は新古典主義を規範とする保守的なアカデミズムに則って行われた。1855年のサロンは、パリ万国博覧会に吸収されたが、この時から、シャンゼリゼ通りの産業館で開催されるようになった。ただ、既に定着していた「サロン」という名称は残った。1863年のサロンの審査は特に厳格で、落選者が続出したが、ナポレオン3世の命令で落選展が開かれた。エドゥアール・マネがその落選展で出品した『草上の昼食』と、1865年のサロンに出品した『オランピア』は美術界にスキャンダルを巻き起こし、新たな絵画の訪れを告げた。この頃パリに集まったクロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールといったバティニョール派と呼ばれる若手画家たちもサロンに応募したが、審査委員にバルビゾン派の画家が入って審査が寛容になった年は、入選を勝ち得たものの、審査が厳格な年は、多くが落選を強いられた。 普仏戦争後の第三共和政の下でも、サロンの審査は保守的であった。これに不満を抱いたバティニョール派の画家たちは、1874年以降、サロンから独立したグループ展(印象派展)を開くようになった。サロンは、依然として大きな集客力と社会的影響を持ち続けていたが、1880年を最後に、美術行政とアカデミーとの対立を機に、国家主催のサロンは取りやめられた。 その後は、フランス芸術家協会がサロンを開催したほか、複数の団体がサロンを開催するようになったが、徐々にサロンやアカデミーの権威は低下していった。 フランスで王立絵画彫刻アカデミーが設立されたのは、ブルボン朝のアンヌ・ドートリッシュ摂政時代の1648年であった。これを主導したのは画家シャルル・ルブランであり、それまでの同業者組合に代わり、作品の受注・制作と職業養成を行おうとするもので、絵画と彫刻の社会的地位の向上を目指していた。1651年にアカデミーは同業者組合との合併を余儀なくされたが、1655年、ジュール・マザランの保護の下、再び独立し、国王ルイ14世から公的な教育と講演の独占の権利など、特権を与えられた[1]。アカデミーは、1667年にパレ=ロワイヤル 1737年、アカデミーが、ルーヴル宮殿のサロン・カレ(方形の間。当時はグラン・サロンと呼ばれていた)で、一般市民が無料で観覧できる展覧会を開き、以後、ほぼ毎年、開催するようになった。そのことからサロンと呼ばれるようになった。サロンに出品できるのは、アカデミーの正会員と準会員だけであった。1751年からは隔年の開催となった[3]。当時、王侯貴族以外にも美術を楽しむ層が拡大しており、公衆が美術を鑑賞できる場としてサロンが求められ、また、美術家の側も、自分の作品を公開することで顧客を掘り起こすことができるというメリットがあった。また、サロンの定期的開催によって、美術の専門家ではない文学者や思想家による美術批評も広がっていき、美術家はそれを無視できなくなっていった[4]。 18世紀のフランスは、アントワーヌ・ヴァトーの後を継ぐロココ美術全盛の時代であり、フランソワ・ブーシェ、シャルル=ジョゼフ・ナトワール、シャルル=アンドレ・ヴァン・ロー(カルル・ヴァン・ロー)といった画家が活躍していた[5]。
概要
ブルボン朝
起源
1737年