サロモン・モレル(Salomon Morel 1919年11月15日 - 2007年2月14日)は、反ナチスのユダヤ人パルチザン員(Jewish partisans)。1945年2月から同年11月までポーランド共産政権の秘密警察 UB(Urz?d Bezpiecze?stwa)の吏員。1968年、共産主義のポーランド統一労働者党が勢力を増す中、秘密警察(UB )の大佐及びカトヴィツェで拘置所の指揮官となる。シフィエントフウォヴィツェにあったズゴダ強制収容所の指揮官に就く。ポーランド人民共和国は、モレルの職務功績を称えポーランド復興勲章及び Golden Cross of Meritの勲章を授与した[1]。別名ソロモン・モレル、シュロモ・モレル。1994年、ポーランド国家記銘院により戦争犯罪ならびに人道に対する罪、そして1,500人の収容者(主にポーランド系シレジア人とドイツ人)の「復讐殺害」を含む告発された[2]。この件はポーランド、ドイツ、イギリス、アメリカのメディアで報道、その後モレルはイスラエルへ行き、帰還法により市民権を得た。
国家記銘院によると、政治犯やドイツ民族主義者など、女性や子供を含む囚人たちを意図的に飢えさせ拷問、劣悪な衛生環境に置き、それによって腸チフスの蔓延を招き、収容者6000人のうち1500人を死亡させた。ポーランドはイスラエル政府に対し、2005年7月まで2度モレルの身柄引き渡しを要請、イスラエル政府は部分的に反ユダヤ主義の陰謀と見做されると虚偽告訴と拒否した。2007年2月、モレルはテルアヴィヴで死去する。 モレルは現在のルブリン県ガルブフ
戦時中
当時のモレルがとった行動については諸説ある。訴訟をした国家記銘院によると、1942年初頭、モレル兄弟は犯罪隊を組織し、地元で強盗を働いていたという。しかし、モレル兄弟はソ連指揮下の共産主義パルチザンであるポーランド人民軍(Armia Ludowa)の隊員に捕えられ犯罪に終止符を打った。モレルは刑罰を逃れようと全ての罪を兄弟になすりつけ、ソ連の赤軍パルチザンに加わり管理人兼森林ガイドとして働いた。2人の兄弟は1943年と1945年に死亡[3]。
身柄引き渡しを拒否した際のイスラエル政府の書簡によると、モレルは1942年にソ連赤軍のパルチザンとなった。両親や義理の姉妹や兄弟がナチス・ドイツの総督府ポーランド警察に殺害された時には森の中にいた。1943年には別の兄弟がポーランドの「ファシスト」に殺されている。また、モントリオール・ガゼットを含む複数のソースによると、モレルは一時期アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に収容されていたことがあり、30人以上の親類はホロコーストで殺害された。 ズゴダ強制収容所
ズゴダ強制収容所
ドイツ人の捕虜たちがズゴダ強制収容所に到着した最初の晩、夜10時頃、バラックの中にモレルが足を踏み入れてこう言った。「俺の名はモレル。ユダヤ人だ。俺のおふくろも、おやじも、家族はみんな死んじまっただろう。俺は、生き延びたら絶対お前らナチスに仕返ししてやろうと誓ったんだ。これから、お前らに報いを受けさせてやる」[要出典]