サロメ・ズラビシュヴィリ
?????? ???????????
2022年
ジョージア
第5代 大統領
任期2018年12月16日 –
首相マムカ・バフタゼ
ギオルギ・ガハリア
イラクリ・ガリバシヴィリ
イラクリ・コバヒゼ
出生 (1952-03-18) 1952年3月18日(72歳)
フランス、パリ
政党ジョージアの道(2006年 ? 2011年)[2]
無所属(2011年 ? )
配偶者.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}
ニコラス・ゴルジェスターニー
(m. 1981; div. 1992)
ジャンリ・カシア
(m. 1993; d. 2012)
子女2人
署名
サロメ・ズラビシュヴィリ(グルジア語: ?????? ???????????、Salome Zurabishvili[nb 1]、1952年3月18日 - )は、フランス出身のジョージアの政治家。現大統領(第5代、2018年 - )。ジョージア初の女性大統領である[nb 2]。2024年の憲法改正で、国家元首の選出方法が選挙人団による間接選挙に変更されるため、ズラビシュヴィリは直接選挙で選出される最後の大統領となる予定である。
ジョージア系移民の子として、フランスのパリに生まれる。1970年代にフランス外務省に入省し、外交官として高位の役職を歴任する。2004年にフランスとジョージアのあいだで協定が成立したのを機にジョージア国籍を取得すると同時にジョージアの外相に就任。外相在任中は交渉によってジョージア本土からロシア軍を撤退させたほか、国際連合安全保障理事会イラン制裁委員会専門家会合の調整役も務めた[3]。
その後、大統領のミヘイル・サアカシュヴィリと訣別し、2006年に「ジョージアの道」という政党を設立、2010年まで率いた。2016年の国会議員選挙に無所属で立候補し、当選。2018年の大統領選にも無所属で立候補し、与党の「グルジアの夢=民主グルジア」から支援を受け、勝利した。 亡命ジョージア人一家のもとに、パリで生まれる。父のレヴァン(1906年 - 1975年)は機械工で、パリのジョージア人ディアスポラのまとめ役であった。曽祖父のニコ・ニコラゼは19世紀後期のジョージアで有名な社会民主主義者で、知識人グループ「メオレ・ダシ」に所属していた[4]。母のゼイナブ・ケディア(1921年 - 2016年)は、グルジア民主共和国初代首相ノエ・ラミシヴィリ
経歴
生い立ち
フランス外務省時代2004年6月
パリ政治学院で学んだ後、ニューヨークのコロンビア大学修士課程に進学、ズビグニュー・ブレジンスキーなどから講義を受けた。1974年に帰国し、フランス外務省に入省。ローマや国際連合、ブリュッセル、ワシントンD.C.などに駐在した。ワシントンのフランス大使館に勤務していた1986年、休暇を利用して初めて両親の故郷であるジョージアを訪れた。
2001年から2003年まで国防総局国際戦略問題部長を務めた後[7]、2003年に駐ジョージア大使に任命された。
外相時代2004年、米国国務長官コリン・パウエルと
2004年、ズラビシュヴィリはジョージア国籍を取得すると共に、大統領のミヘイル・サアカシュヴィリから外相に任命され、3月18日に就任した[8]。ジョージアの外相に女性が就任したのは初めてであった。外相として、ズラビシュヴィリはジョージア国内からロシアの軍事基地を撤収させるための交渉に従事し、2005年5月19日にロシアの外相セルゲイ・ラブロフと協定を締結した[9]。また、北大西洋条約機構 (NATO) への接近や欧州への統合を図るため、ウクライナやリトアニア、ラトビア、エストニア、ルーマニア、ブルガリア、チェコ、ポーランドなどと「新ジョージア友好国グループ」 (New Group of Friends of Georgia) という枠組みを立ち上げた。
しかし国会議員との争いが続いたため、2005年10月19日に首相のズラブ・ノガイデリから外相を更迭された[10]。ジョージアの大使の多くもズラビシュヴィリを痛烈に批判した。また、更迭が発表される直前、ズラビシュヴィリはフランス外務省を退職し、ジョージアで政界に入ると表明した。外相就任後も、ズラビシュヴィリはフランス外務省から給与を支給されていた。
政界へ2009年、野党指導者のゴガ・ハインドラヴァと
2005年11月、ズラビシュヴィリは「サロメ・ズラビシュヴィリ運動」という政治組織を立ち上げた。2006年1月にはジョージアの「事実上の一党独裁」を批判して、新党「ジョージアの道」を結成した[11]。ズラビシュヴィリの名前はジョージアでそれなりに知られていたが、政治の舞台で基盤をつくるには時間がかかった。2006年10月5日のトビリシ市議会選挙で、同党の得票率は2.77%に留まった。その後ジョージアの道は、2007年10月に野党統一連合に入った。
2009年にサアカシュヴィリの大統領退陣を求める声が高まった際には、ニノ・ブルジャナゼやダヴィド・ガンクレリゼ、エカ・ベゼリアといった野党の重鎮らとともに、トビリシで抗議デモを行った[12]。
2010年11月12日、ジョージアの道の党首から退くことを表明し、新たな党首にはカハ・セトゥリゼが就任した[13]。