サル・ミネオ
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サル・ミネオ
Sal Mineo

本名Salvatore Mineo, Jr.
別名義The Switchblade Kid[1]
生年月日 (1939-01-10) 1939年1月10日
没年月日 (1976-02-12) 1976年2月12日(37歳没)
出生地 アメリカ合衆国ニュー・ヨーク州ニュー・ヨークブロンクス
死没地 アメリカ合衆国カリフォルニア州ウェスト・ハリウッド
身長 172.72cm (5’8″)
職業俳優

 受賞
ゴールデングローブ賞
助演男優賞
1960年栄光への脱出
その他の賞

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“サル”サルヴァトーレ・ミネオ・ジュニア(Salvatore "Sal" Mineo Jr., 1939年1月10日 - 1976年2月12日[2]は、アメリカ合衆国出身の俳優である。1955年の映画『理由なき反抗』のプレイトウ役で知られていて、『理由なき反抗』と『栄光への脱出』の2作品で、アカデミー助演男優賞に2度ノミネートされている。
経歴
初期のキャリア

サル・ミネオはブロンクスで生まれた。両親は棺メーカーであり、父はイタリアシチリア島から移住してきたサルヴァトーレ・ミネオ・シニアで、母はイタリア系であるがアメリカ合衆国生まれのジョセフィーンである[3][4]。母は早くからミネオに演技とダンスの学校で学ばせていた[5]。ミネオが最初にステージに登場したのは1951年で、テネシー・ウィリアムズの『バラの刺青』のサルヴァトーレ役であった[6]。そして次は、ユル・ブリンナーが出演するミュージカル作品、『王様と私』でのチュラロンコーン王子としての出演であった。ユル・ブリンナーは、ミネオの俳優としてのキャリア向上への助力者となった[7]

ミネオは8歳でストリート・ギャングに加わっていて、10歳のときに強盗の容疑で逮捕されたことがあった。判事は両親に、ミネオが少年院に入るか、アカデミーでダンスや歌の授業を続けさせるかとの提案をして、一家はアカデミーでの授業の継続を選択した[8][9]

ミネオがテーンエイジャーのころに、ABCで放映していた、音楽クイズ番組『Jukebox Jury』の1953年-1954年シーズンに出演した。また、1955年にジョセフ・ペヴニー監督の『六つの橋を渡る男』で映画でのデビューをする前にも、いくつかのTV出演をしていた。この『六つの橋を渡る男』での役は、クリント・イーストウッドとオーディションで競ったものだった[10]。またミネオは、チャールトン・ヘストンが出演した1955年の映画『ベンソン少佐の個人的な戦争』に、オーディションを受けたうえでシルヴェスター役で出演した[11]
『理由なき反抗』以降のキャリア

ミネオは、1955年のジェームズ・ディーンがジム・スターク役で出演した映画、『理由なき反抗』で、繊細なプレイトウの役を演じてブレイクした[6]。ミネオの演技は、アカデミー助演男優賞にノミネートされて、人気が急速に高まっていった。ミネオの伝記の著者ポール・ジェファーズは、「若い女性のファン達から何千ものファン・レターを送られて、公に姿を現した時には彼女達に取り巻かれた」そして、「ハリウッドとニュー・ヨークで、常に美人とデートしていた」と述べている[7][12]

1956年の映画『ジャイアンツ』でミネオは、第2次世界大戦で亡くなったメキシコの少年、アンヘル2世の役を演じた。しかし、その後の役のほとんどは『理由なき反抗』で演じたプレイトウ役のヴァリエーションで、トラブルを抱えたティーンのタイプキャストであった[13]。1958年のディズニー映画『最後の一人まで』では、ミネオはホワイト・ブルの役で登場し、トンカという名前のスー族の一員を演じた。

ダグラス・ブロードは著書、『Multiculturalism and the Mouse: Race and Sex in Disney Entertainment』の中で、「ミネオは、ホワイト・ブルの役で、再びホモセクシャルの背後の意味に形を与えた」と記述している。ミネオは1950年代の終わりには、時には、映画『暴力の季節』からの名前、Switchblade Kidで呼ばれたメジャーな有名人であった[7]

1957年に、ミネオは、少しのシングルとアルバムでポップ・ミュージックの世界に容易に進出した。2曲のシングルは、Billboard Hot 100のTop 40に入り、Start Movin'(In My Direction)は最高位9まで上昇し、100万枚を超えた売り上げでゴールド・ディスクに認定された[14][15]。また1958年のドン・ウェイス監督による映画『ジーン・クルーパ物語』には、スーザン・コーナージェ-ムズ・ダーレン、そしてスーザン・オリヴァーと共にジーン・クルーパ役で出演した。1957年のクイズ番組『What's My Line?』にドラムスが趣味であるとして、チャレンジャーへの特別ゲストとして登場した[16]

ミネオはタイプキャストから抜け出そうとして努力した。確かな演技とエキゾチックで整った容貌で、『最後の一人まで』でのネイティブ・アメリカンの少年、『ジャイアンツ』でのメキシコの少年、再びアカデミー助演男優賞にノミネートされたオットー・プレミンジャー監督の1960年の映画『栄光への脱出』で、ホロコーストを生き延びたユダヤ人少年に配役されていて、それぞれの役を演じていた。この『栄光への脱出』でのドヴ・ランダウ役ではゴールデン・グローブ賞助演男優賞を受賞した。
キャリアの低迷

1960年代初頭には、ミネオは、今までに有名になっていたタイプの役柄を演じるには、年齢が上であったし、同性愛者であるという噂は、主役には適切ではないとみなされていた。一例としては、デイヴィッド・リーン監督の1962年の映画『アラビアのロレンス』のオーデションを受けたが、採用されなかった[17]。またミネオは1962年の映画『史上最大の作戦』に、サン・メール・エグリーゼ上陸後にドイツ兵に殺された一等兵の役で出演した。

ミネオは突然の人気の低迷に悩まされていて、「1分の間に、自分の手に余るオファーが来たと思えたものだったが、次の瞬間には、もう誰も自分を望んでいなかった」と後に語っている。この時期に重要だった映画は、1962年の『偉大な生涯の物語』のユーライア役での出演だった。また、1965年『パティ・デューク・ショー』の2シーズンでドン・ウェイス監督の"Patty Meets a Celebrity"のエピソードでセレブとしてのTV出演が行われた。

ミネオのキャリアを復活させるために、フランシス・フォード・コッポラの家の前の芝生にキャンプをしようという話があった。実際に1972年のゴッドファーザーでフレド・コルレオーネの役を得るチャンスがあったが、その役はジョン・カザールが演じることになった。ミネオは、1964年から、ABCのTVシリーズ『コンバット!』のエピソードに登場した。殺人を好むGIの役と、フェルナンド・ラマスとの共演を含めて、全3話にゲスト出演していた[18]

1965年の映画『Who Killed Teddy Bear?』で、ミネオはジュリエット・プラウズと共演した。ミネオはストーカー役を演じ、批評家から高く評価された。ミネオはこの役で、自らの新しいタイプキャストを見つけた。彼のキャリアの最後の1つはチャールズ・マンソンと同様のカルト・リーダーを演ずる、1975年のTVシリーズ『特別狙撃隊S.W.A.T.』でのゲスト出演だった。

1969年にミネオはL.A.で、LGBTがテーマの演劇『Fortune and Men's Eyes』のプロデュースと演出をするためにステージに戻った。


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