サルマタイ人
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サルマタイ(ギリシア語:Sarmatai、ラテン語:Sarmatae、英語:Sarmatians)は、紀元前4世紀から紀元後4世紀にかけて、ウラル南部から黒海北岸にかけて活動したイラン系遊牧民集団。紀元前7世紀末からウラル南部にいたサウロマタイ紀元前4世紀頃東方から移動してきた遊牧民が加わって形成されたとされる[1]。サルマタイはギリシア語であり、ラテン語ではサルマタエとなる。また、彼らのいた黒海北岸地域をその名にちなんでサルマティアと呼ぶため、サルマティア人とも呼ばれる。紀元前1世紀頃の黒海周辺諸族。
構成部族

ストラボン紀元前65年 - 25年)によると、サルマタイは以下の部族に分かれていたという。

イアジゲス(イアジュゲス、ヤズィゲス)・・・ドナウ川ドニェプル川との間の地域

ロクソラニ(ロクソラノイ)・・・ドニェプル川とドン川との間の地域

アオルシ(アオルソイ)・・・ドン川の東方地域

シラキ(シラケス)・・・ドン川の東方地域

また、後の時代にはアラン人もこれに加えられる。[2][1]
歴史
サウロマタイとサルマタイ

サルマタイの名が初めて登場するのは紀元前4世紀のギリシアの著作である。それ以前はヘロドトスなどに記されたように、サウロマタイという名前のよく似た民族が登場していた。サウロマタイはサルマタイの直接の祖先とされ、考古学的にはドン川から西カザフスタンにいたるまでの地域における紀元前7世紀から紀元前4世紀の文化をサウロマタイ文化とし、それに続く文化をサルマタイ文化(紀元前4世紀 - 紀元前2世紀)としている。[3]

ヘロドトスによるとサウロマタイはウラル川からヴォルガ川流域の草原地帯で遊牧を営んでいたが、ヒッポクラテスが記したように紀元前5世紀末になるとマイオティス湖(アゾフ海)周辺に移住していた。紀元前4世紀中葉になると、クニドスのエウドクソスはタナイス川(ドン川)に住むシュルマタイ(syrmatai)というサウロマタイ系の部族を記録し、カリュアンダのスキュラクスもタナイス川(ドン川)にシュルマタイの存在を記し、サウロマタイの一集団とした。しかし、フィリッポフカ古墳の発掘調査によると、紀元前5世紀末までにウラル川中流域でサルマタイの勢力が増大していたことが明らかとなる。[4]
サルマタイのスキティア侵略

サルマタイのスキティア侵略については様々な史料に断片的に記録されているが、ヘロドトス等に記されているスキタイほど詳細な史料が存在しない。しかしながら、紀元前4世紀末にはサルマタイ諸部族がサウロマタイに代わってドン川に迫り、そのうちのシラケス族はボスポロス王国の権力闘争に深く関与してクバン川流域を支配下に置いたという。時にスキタイ(第二スキタイ国家)は紀元前339年のアテアス(アタイアス)王の死後から弱体化し、紀元前3世紀にはドン川を越えて侵攻してきたサルマタイによって征服されてしまう。以降、この地域はスキタイのスキティアからサルマタイのサルマティアと呼ばれるようになった。サルマタイは黒海北岸を征服すると、そこにあったギリシア植民市にも侵略し、自由民たちを捕虜にして売りさばいた。サルマタイから圧迫されたスキタイはクリミア半島に押し込まれ、第三スキタイ国家を形成した。その地域は小スキティアと呼ばれた。[5]
ポントス・ボスポロス王国に従軍

ポントスボスポロス王のパルナケス(在位:紀元前63年 - 紀元前47年)がローマと戦うことになったため、シラケス王のアベアコスは騎兵2万、アオルソイ王のスパディネスは20万、高地アオルソイ族はさらにそれ以上の騎兵を送って従軍させた。[6]
パルティアとローマの戦いアルメニア王国の地図

35年パルティアアルタバヌス2世(在位:10年頃 - 38年)の王位に不満を持ったパルティア貴族がローマ帝国に支援を求めた。ローマのティベリウス帝(在位:14年 - 37年)は援軍を派遣するとともにティリダテス3世を新たなパルティア王に据え、前年にアルタバヌス2世が奪ったアルメニア王国を取り返した。この戦いでサルマタイは両方の側にかり出され、互いに争ってアルメニア奪還に貢献した。[7]
ボスポロスとローマの戦いボスポロス王国の位置。

ボスポロス王国のミトリダーテス(在位:41年 - 45年)は王位を弟のコチュスに奪われて以来、各地を彷徨っていたが、ボスポロス王国からローマの将軍ディーディウスとその精兵が撤退し、王国にはコチュス(在位:45年 - 62年)とローマ騎士ユーリウス・アクィラの率いる少数の援軍しか残っていないことを知った。ミトリダーテスは二人の指揮者を見くびって部族を煽動して離反を促し、軍勢を集めてダンダリカ族の王を放逐し、その王国を掌中に収めた。これを聞いたアクィラとコチュスは、自分らだけの手勢に自信が持てなかったため、アオルシー族の強力な支配者であったエウノーネスに使節を送り、同盟条約を結んだ。[8]

両軍は合同して縦隊をつくり、進軍を開始した。前部と後尾はアオルシー族が、中央はローマの援軍とローマ風に装備したボスポロスの部族が固める。こうした隊形で敵を撃退しながら、ダンダリカ王国の首邑ソザに達した。すでにミトリダーテスがこの町を放棄していたため、ローマ軍は予備隊を残して監視することにした。ついでシラキー族の領地に侵入し、パンダ河を渡り、首邑ウスペを包囲した。この町は丘に建てられ、城壁や濠で守られていたが、城壁は石ではなく、柳細工や枝細工を積み重ねたものに土をつめただけのものであったため、突破するのにさほど時間がかからなかった。包囲軍は壁より高い楼を築き、そこから松明や槍を投げ込み、敵を混乱に陥れた。[9]

翌日、ウスペの町は使節を送ってきて「自由民に命を保証してくれ」と嘆願し、奴隷を一万人提供しようとした。ローマ軍はこの申し出を断り、殺戮の号令を下した。ウスペの町民の潰滅は、付近の人々を恐怖のどん底に陥れた。シラキー族の王ゾルシーネスはミトリダーテスの絶体絶命を救ってやろうか、それとも父祖伝来の王位を維持しようかと、長い間考えあぐねた。遂に自分の部族の利益が勝って、人質を提供し、カエサルの像の下にひれ伏した。こうしてローマ軍はタナイス河を出発して以来、三日間の行軍で一滴の血も失わずに勝利を勝ち取ることができた。しかしその帰途、海を帰航していた幾艘かの船が、タウリー族の海岸に打ち上げられ、その蛮族に包囲され、援軍隊長とその兵がたくさん殺された。[10]

ミトリダーテスは自分の軍隊を少しも頼れなくなり、アオルシー族のエウノーネスに依ろうとした。ミトリダーテスは服装も外見も現在の境遇にできるだけ似つかわしく工夫し、エウノーネスの王宮に赴いた。[11]

エウノーネスは盛名をはせたこの人の運命の変わり方と、そして今もなお尊厳を失わぬ哀訴にひどく心を動かされた。そして嘆願者の気持ちを慰め、ローマの恩赦を乞うために、アオルシー族とその王の誠意を択んだことに感謝した。さっそくエウノーネスは使節と次のような文書をカエサルの所へ送った。「ローマの最高司令官らと偉大な民族の王たちの友情は、まず地位の相似から生まれている。予とクラウディウスはその上に勝利を分けあっている。戦争が恩赦で終わる時はいつも、その終結は輝かしい。このようにして、征服されたゾルシーネスはなにも剥奪されなかった。なるほどミトリダーテスはさらに厳しい罰に価する。彼のため権力や王位の復活を願うのではない。ただ彼を凱旋式に引き出したり、斬首で懲らしめたりしないようにと願うだけである。」[12]
ウァンニウスに従軍するイアジュゲス族

かつてローマのドルスス・カエサルスエビ族の王位に据えていたウァンニウスが内紛によって放逐されたため、ウァンニウスはローマに支援を求めた。しかし、クラウディウス帝(在位:41年 - 54年)は蛮族同士の争いに軍を派遣したくなかったので、戦闘はせず、最低限の軍を川岸に配備するのみで、ウァンニウスには避難所を与えてやった。ウァンニウスには彼の部族(クァディー族)の歩兵とサルマタイのイアジュゲス族の騎兵が味方となった。敵はヘルムンドゥリー族、ルギイー族など数が多く、太刀打ちできないと思ったウァンニウスは砦にこもって籠城戦に持ち込もうとした。しかし、敵の包囲にたまりかねたイアジュゲス族が打って出たため、ウァンニウスも出る羽目になり敗北を喫した。[13]


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