サルバドール・ダリ
Salvador Dali
サルバドール・ダリ(1939年11月29日)
カール・ヴァン・ヴェクテン撮影
本名Salvador Domenec Felip Jacint Dali i Domenech
誕生日 (1904-05-11) 1904年5月11日
出生地 スペイン王国 ジローナ県、フィゲーラス
死没年1989年1月23日(1989-01-23)(84歳)
死没地 スペイン カタルーニャ州フィゲーラス
国籍 スペイン
運動・動向キュビスム、ダダイスム、シュルレアリスム
芸術分野絵画、デッサン、写真、彫刻、作家
教育王立サン・フェルナンド美術アカデミー
代表作こちらを参照
テンプレートを表示
フィゲーラスのダリ劇場美術館
サルバドール・ダリ(Salvador Dali カタルーニャ語: [s??β??do d???i] スペイン語: [salβa?do? da?li]
、初代ダリ・デ・プブル侯爵 Marques de Dali de Pubol(es)、1904年5月11日 - 1989年1月23日)は、スペイン・フィゲーラス出身の画家である。シュルレアリスムの代表的作家として知られる[1]。フルネームはカタルーニャ語でサルバドー・ドメネク・ファリプ・ジャシン・ダリ・イ・ドメネク(Salvador Domenec Felip Jacint Dali i Domenech)。スペイン語ではサルバドール・ドミンゴ・フェリペ・ハスィント・ダリ・ドメネク(Salvador Domingo Felipe Jacinto Dali Domenech)となるが、1977年以後はスペイン語とカタルーニャ語を混ぜたものを利用し始めた。妻は詩人ポール・エリュアールの元妻、ガラ・エリュアール=ダリ。 ダリは1904年5月11日、スペインのカタルーニャ地方フィゲーラスで、裕福な公証人サルバドール・ダリ・イ・クシ(Salvador Dali i Cusi)(1872?1950)の息子として生まれた[2]。母親フェリパ(旧姓ドメネク・フェレス)(1874?1921)も富裕な商家出身で、一族は自らをユダヤ系の血筋と信じている[3]。ダリには幼くして亡くなった兄がいて、同じ「サルバドール」という名が付けられていた。これは少年ダリに大きな心理的影響を与えた。
生涯
ダリは教授を批判し学生の反乱を指導したとして、1923年にアカデミーから処分を受けた[4]。1925年、マドリードのダルマウ画廊で最初の個展を開いた[2]。
1927年、パリに赴き、パブロ・ピカソ、トリスタン・ツァラ、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴン、アンドレ・ブルトンら、シュルレアリスムの中心人物たちと面識を得た。
1929年夏、ポール・エリュアール[5]が妻とともにカダケスのダリを訪ねた。これが後にダリの妻となるガラ・エリュアールとの出会いであった。ダリとガラは強く惹かれ合い、1934年に結婚した。
王立サン・フェルナンド美術アカデミーの学生時代には、印象派やキュビスムなどの影響も受けていたが、シュルレアリスムに自分の進む道を見出し、1929年に正式にシュルレアリスト・グループに参加した。ダリは1938年にグループから除名されたが、その理由はダリの「ファシスト的思想」が、アンドレ・ブルトンの逆鱗に触れたからであった。1939年にはブルトンはダリの作品が商業的になっていくのをからかって、"Avida Dollars"「ドルの亡者」というあだ名をダリに与えた(これはSalvador Daliのアナグラムであり、音声的にはフランス語"avide a dollars"「ドルをむさぼる」と同音である)。しかしダリの人気は非常に高かったため、グループを除名されたあとも国際シュールレアリスム展などに必ず招待された。
ダリは自分の制作方法を「偏執狂的批判的方法(Paranoiac Critic)」と称し、写実的描法を用いながら、多重イメージなどを駆使して夢のような風景画を描いた。またバロックを代表する画家ヨハネス・フェルメールを高く評価していた。著書の中で、ほかの画家を採点したとき、フェルメールに最高点をつけている。「アトリエで仕事をするフェルメールを10分でも観察できるならこの右腕を切り落としてもいい」と述べたこともあった。第二次世界大戦後はカトリックに帰依し、ガラを聖母に見立てた宗教画を連作した。ガラはダリのミューズであり、支配者であり、又マネージャーであった。
第二次世界大戦中は戦禍を避けてアメリカ合衆国に移住したが、1948年にスペインに帰国。ポルト・リガト(en:Port Lligat)に居を定めて制作活動を行った。
1964年イザベル・ラ・カトリカ大十字勲章(スペイン語版、英語版)を受章した[6]。
1982年にガラが死去すると、「自分の人生の舵を失った」と激しく落ち込み、ジローナのプボル城に引きこもった。
1984年には寝室でおきた火事でひどい火傷を負い、フィゲラスに移った。
1989年にフィゲラスのダリ劇場美術館(en:Dali Theatre and Museum)に隣接するガラテアの塔で心不全により死去。84歳没。
エピソードダリ(1965年)ペットのオセロットとダリ(1972年)
川添象郎と加橋かつみがフランスへ、ロック・ミュージカル「ヘアー」を見に行った際、加橋がたまたま出会った青年の連れが、ダリであったという[7]。
ダリは自作に対し、「ダリの作品は誰にもわからない。ダリにもわからない」と述べている[8]。
科学に興味を持っており、異なる分野の科学者が討論する会議を主催したり、学会のポスターを制作するなどした。これらはドキュメンタリー映画「ダリ ―科学を追い求めた生涯」としてまとめられている。特に当時最先端のDNAに関心を示し、「ガラ酸とダリ酸のデオキシリボ核酸」という作品を残している。発見者の1人であるジェームズ・ワトソンは自伝「二重らせん」の表紙を依頼するため面会したことがある[9]。
実際には、ダリは根っからの奇人というわけではなく、本当に親しい友人の前では非常に繊細で気の行き届いた常識人だったとされている。つまり彼のこうした「アート」は現実世界と対峙するための鎧のようなものであり、顕示される自己が必ずしもダリ本人そのものではないことは重要である。