ガイウス・サッルスティウス・クリスプス
C. Sallustius Crispus[1]
サッルスティウスを描いた版画
出生紀元前86年
生地アミテルヌム
死没紀元前35年
死没地ローマ
出身階級サビニ人[2]
氏族サッルスティウス氏族
ガイウス・サッルスティウス・クリスプス(ラテン語: Gaius Sallustius Crispus, 紀元前86年 - 紀元前35年)は、紀元前1世紀の共和政ローマの政務官。引退後は叙述に専念し歴史家としても知られ[2]、タキトゥスに高く評価された[3]。 イタリアのサビニ人の町アミテルヌム (Amiternum
経歴
恐らく紀元前55年より前にローマへ来ており、前55年にクァエストル(財務官)、紀元前52年には護民官に就任、かなり手段を選ばない活動を行ったとみられ、紀元前50年にはケンソルの譴責を受け元老院を除名されている[2]。護民官時代は、プブリウス・クロディウス・プルケルとオプティマテス側のティトゥス・アンニウス・ミロ(英語版)が激しく対立し、ミロと彼を弁護したマルクス・トゥッリウス・キケロを攻撃した護民官の一人と考えられている[7]。元老院からの除名は、この騒動に関わったことや、その前にミロの妻との不倫をささやかれたことが原因であったとも考えられており[8]、更に進めてガイウス・ユリウス・カエサル寄りであった彼に対するグナエウス・ポンペイウス派の報復人事ではないかとする説もある[9]。
紀元前49年からのローマ内戦では、カエサルを助けて戦った。彼がいつ頃からカエサル派に立ったのか、研究者の間でも意見が分かれている。指揮官としてはいまいちであったが、アフリカ戦役でケルキナ島を占領し、その地の食糧を軍に供給した。タプススの戦いも目撃している[10]。