サリー・ランド
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サリー・ランド (Sally Rand)

生誕ヘレン・グールド・ベック
(1904-04-03) 1904年4月3日
アメリカ合衆国ミズーリ州エルクトン[1]
死没1979年8月31日(1979-08-31)(75歳)
アメリカ合衆国カリフォルニア州グレンドラ
別名ビリー・ベック、ハッティ・ヘレン・グールド・ベック
職業バーレスクパフォーマー女優
活動期間1925-1979
配偶者クラレンス・ロビンズ
サーケル・グリーナフ(1941-?)
ハリー・フィンケルシュタイン(1949-1950)
フレッド・ララ (1954-?)
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サリー・ランド (英語: Sally Rand、1904年4月3日[2]1979年8月31日)はバーレスクパフォーマーキャバレーパフォーマー、女優である。ダチョウの羽根のを使ったファンダンスや大きな風船を用いるバブルダンスで最も有名である。バーレスクの歴史に大きな足跡を残した。
生い立ち

サリー・ランドはハッティ・ヘレン・グールド・ベックとしてミズーリ州ヒッコリー郡エルクトンの村で生まれた[3]。父のウィリアム・ベックはウエスト・ポイント陸軍士官学校を卒業したアメリカ軍の退役大佐で、母のネッティ・グローヴ・ベックは学校教員であり、パートタイムで新聞の特派員もしていた[4]。小学校の頃に一家でミズーリ州ジャクソン郡に引っ越した[5]

ヘレンは非常に若い頃から舞台に立つようになり、たった13歳の頃からカンザスシティのエンプレスシアターでコーラスガールをつとめるようになった。『カンザスシティ日報』の劇評家グッドマン・エースは、カンザスシティのナイトクラブでヘレンが舞台に立っているのを見て熱烈な批評を書いており、早くからその才能を認めていた。カンザスシティでバレエと演劇を学んだ後、十代のヘレンはハリウッドに行くことに決めた。西海岸に行くため、短い間リングリング・ブラザーズ・サーカスでアクロバットのパフォーマーとして雇われていた[4]。夏季公演や巡業劇団でも舞台に立ち、当時は無名だったハンフリー・ボガートと一緒に仕事をしたこともあった[6]
経歴セシル・B・デミルの活人画に登場しているサリー・ランド。

1920年代には舞台やサイレント映画に出演していた。セシル・B・デミルが、ランドマクナリーの地図からサリー・ランドという芸名をつけた。1927年にはワンパス・ベビー・スターズのひとりに選ばれている。ワンパス・ベビー・スターズに選ばれたサリー・ランド。

トーキー映画のはじまりとともに、ランドはダンサーになり、シカゴのパラマウントクラブで始めて人気を博したファンダンスでよく知られるようになった[7]。ファンダンスについては別のダンサーであるフェイス・ベーコンが自らが創始者であると主張しており、ベーコンとランドはライバルであった[8][9]。ランドは1933年に「発展の世紀」と題したシカゴ万国博覧会アメリカン・バーレスクのパフォーマーとして出演したのが最も有名である。だいたいはクロード・ドビュッシーの「月の光」にあわせ、舞台上で飛び回る際にファンを体の前後で翼を持つ鳥のよう操って体をちらりちらりと見せたり隠したりするダンスを行っていた[10]。万博の際、1日に4回公然猥褻容疑で逮捕されたこともあった。ファンダンスのパフォーマンスの後、裸に見えるイリュージョンで白馬に乗ってシカゴの通りを歩いた際、マックス・ファクターハリウッド映画用に作った新しいメイク方法によるボディペイントを施された後に逮捕されたという[11][12]。戸外でパフォーマンスする際の風に対応するため、ランドは大きな風船を用いたバブルダンスも考案・発展させた[13]。1934年の映画『ボレロ』でファンダンスを披露した[11]

1936年、ランドはサンフランシスコのミュージック・ボックス・バーレスク・ホールを買い、のちにそこはグレート・アメリカン・ミュージック・ホールとなった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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