サリンプラント建設事件
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サリンプラント建設事件(サリンプラントけんせつじけん)は、オウム真理教サリン大量生産の為に山梨県上九一色村の宗教施設「第7サティアン」内に猛毒のサリン化学兵器)の製造プラントを建設した事件。教団内での計画名は滝澤和義ホーリーネームに由来する「ウパヴァーナプロジェクト[1]」。

発覚当初は、このサリンプラントで一連の事件に使用されたサリンが製造された可能性も推測されたが[2]、後にサリン製造までは至っていなかったことが判明した[3][4]。事件で使用されたサリンはクシティガルバ棟やジーヴァカ棟、反応釜などで製造されたものである[3]
概要
建造

1993年4月、土谷正実村井秀夫から『毒のはなし』『薬物乱用の本』の2冊を見せられ、無力化ガスPCPなどこういうものはつくれるかと聞かれ調査を始めた。6月には村井から大量生産に向いている化学兵器を尋ねられ、土谷はサリンが安いと回答し生産が決まった。村井は土谷に銃撃や砲撃を受けたグロテスクな死体の写真を見せて「化学兵器はダーティーな兵器、戦車や戦闘機はクリーンな兵器、というイメージは戦車や戦闘機を売らんがための軍需産業とフリーメイソンの情報操作だ」と語り、さらにチベット侵攻で通常兵器しか持たないチベット軍が壊滅したことを調べさせたりして、「このサリンは最終戦争が起きたときに自衛のために使う。オウムから仕掛けることはない」などといって土谷を納得させた[5][6]

サリン合成の目処が立つと、麻原はいよいよ大量生産の計画を実行に移し、同年8月か9月頃、麻原は滝澤和義に「70トンのサリンプラントを造ってくれ。いきなり大きいのでいこう」として、山梨県西八代郡上九一色村(現富士河口湖町)の宗教施設第7サティアンにサリン生成を目的とした設備の建設を指示した[3]。土谷や村井秀夫中川智正らが技術的支援、新実智光長谷川茂之らがダミー会社「長谷川ケミカル」などを設立し薬品手配を担当した[3]。また第7サティアンを管理していた上祐史浩も参加していた[7]

計画では、全5工程でサリンを製造する予定であった[8]。内部にはシャワー室や運動器具、様々な自動制御装置も設置され、サリンプラントとしては史上最大級ともいえるものであった[2]中川智正が持ってきた本に載っていたイラクのサリンプラントと似ていたことで、滝沢は設計に自信を持った[9]。建設費は30億円とも言われる[10]

サリンプラントの設計図は、カザフスタンの化学兵器工場の図面を流用したとされる[11] [12]

サリンプラントのワークに従事する信者に対しては、事前に薬物を使ったスパイチェック(ナルコ)も行われていた。また、全員がサリン製造という目的を知っていたわけでは無かった[13][14]
難航

村井秀夫が化学の常識と反することを繰り返したこともあり[15]、建設は難航した。麻原は滝澤に「(1994年)4月25日までに完成させろ。グルの絶対命令だ。必ず完成しろ。そうしないとおまえは無間地獄行きだ」と脅したり、村井らに「このままでは真理の根が途絶えてしまう。サリンを東京に70トンぶちまくしかない」などと説法し完成を急がせた[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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