サラディン
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この項目では、イスラームの将軍・君主について説明しています。イラクの県については「サラーフッディーン県」をご覧ください。

「サラディン」はこの項目へ転送されています。イギリス製装甲車については「FV601 サラディン」をご覧ください。

サラーフッディーン

サラーフッディーンと考えられる肖像画
エジプトとシリアのスルタン
在位期間
1174年 ? 1193年3月4日
戴冠1174年、カイロ
先代アーディド (ファーティマ朝)
次代

アル=アジーズ (エジプト)

アル=アフダル (シリア)


出生1137年頃
ティクリートジャズィーラアッバース朝
死亡1193年(55 - 56歳没)3月4日
ダマスカスシリアアイユーブ朝
埋葬サラーフッディーン廟、ウマイヤ・モスク、ダマスカス
実名ユースフ・イブン=アイユーブ・イブン・シャージー・イブン=マルワーン・イブン=ヤクブ・アル=ドゥワイニ・アル=ティクリーティー
父親ナジムッディーン・アイユーブ
配偶者イスマトゥッディーン・アーミナ・ビント・ウヌル
子女
アル=アフダルアル=アジーズアル=ザーヒル、アル=ムイッズ・イスハーク、ナジムッディーン・マスウード、ムーニサ・ハトゥン、ズムッルド・ハトゥン
信仰スンナ派イスラーム
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サラーフッディーン(サラディン)[1](ユースフ・イブン・アイユーブ・イブン・シャーズィー、アラビア語: ???? ?? ???? ?? ????‎, Y?suf ibn Ayy?b ibn Sh?dh?、クルド語:Selaheddine Eyubi、1137年または1138年 - 1193年3月4日[2])は、12世紀から13世紀にかけてエジプトシリアイエメンなどの地域を支配したスンナ派イスラーム王朝であるアイユーブ朝の創始者である。現イラク北部のティクリート出身で、アルメニアクルド人一族の出自である。エジプトシリアを支配し、エルサレム王国を1187年に破り、さらに第3回十字軍を破ったことから、イスラム世界の英雄とされる。
名前

彼個人の名をユースフ(・イブン・アイユーブ)(アイユーブの息子ユースフの意。ユースフはヨセフの、アイユーブはヨブのアラビア語形。)。出生時の全名は ???? ?? ???? ?? ???? ?? ????? ?? ????? ???????? ????????:Y?suf ibn Ayy?b ibn Sh?dh? ibn Marw?n ibn Ya?q?b al-Duwayn? al-Tikr?t? であり、彼の父や祖父、曽祖父また先祖のラカブや種族の出身地が含まれている。個人を区別するためサラーフッディーン ?al?? al-D?n という「信教(D?n)の高潔(?al??)[3]」(righteousness of the religion)を意味するラカブ[注釈 1]を名乗るようになり、さらに数々の武勲から称号を含んだ新たな名が組まれていった。

肩書きなどを添えた名前は ????? ?????? ??? ?????? ???? ????? ??????? ???? ?? ?????:Al-Maliku N-N??iru ab? l-Mu?affar? ?al?? D-D?nu waD-Duny? Y?suf bin Ayy?bである。Al-Malikuは「支配者、王」、aN-N??iru は「援助者、勝利をもたらす者」。ab? l-Mu?affar? は「勝利者の父」を意味する。

同時代の十字軍側のラテン語資料などでは Salahadinus(サラハディヌス)または Saladinus(サラディヌス)などと称し、これを受けて欧米では慣習的に Saladin(サラディン)と呼ばれる。
生涯
生い立ち

ヒジュラ暦532年(西暦では1137年または1138年)、イラク北部の町ティクリート(タクリート)に生まれ「ユースフ」と名付けられた[4]。ほかに4人の兄弟がいたがユースフが何番目の子であったかは不明であり[4]、母親についての情報もほとんど残されていない[5]。父のナジムッディーン・アイユーブセルジューク朝治下ティクリートクルド人代官であったが、ユースフが生まれて間もない1138年頃、兄弟のアサドゥッディーン・シール・クーフがキリスト教徒の官吏を誤って殺害したため、一家もろともティクリート追放の憂き目にあった[6]。アイユーブはかつてザンギー朝の創始者、ザンギーバグダードでの戦に敗れモースルへ逃れる際に手助けしたことがあり、アイユーブとシール・クーフの兄弟はその時の恩義からザンギーの軍団長に迎えられ、さらにはバールベックに領地を与えられた[7]。そのため、ユースフは少年時代をここで送ることになった。バールベックは穀物や果物を産する豊かな町で、後に晩年のサラーフッディーンに仕え伝記『サラーフッディーン伝』を著したイブン・シャッダード  (Baha ad-Din ibn Shaddad) は、想像も込めて「ここで性格の良さが育まれた」と述べている[8]

1146年にザンギーが手下のマムルーク(奴隷兵)に暗殺されると、ダマスクス総督でブーリー朝アタベク・ムイーヌッディーン・ウナルは軍を派遣してアイユーブの守護するバールベックを包囲攻撃した[9]。アイユーブはこれをよく耐えて、最後はバールベックを明け渡す代わりに、いくばくかの保障金の支払いとダマスクス近郊の村落のいくつかを交渉によって要求しこれの獲得に成功した[9]。これによりアイユーブは名目上セルジューク家へ臣従し、ユースフはじめその家族は父とともにダマスクスへ移住する事となった[9]。この時ユースフは8歳ほどであり、エジプトで権力を確立する30代前半までをダマスクスで過ごす事になる。
ヌールッディーンへの伺候15世紀装飾写本中の「エジプトの王、サラディン」

1152年、成人とみなされる数え年15歳に達したユースフ(以下サラーフッディーン)は、ダマスクスの父のもとを発ち、ザンギーの息子でザンギー朝の西半分を相続し、シリアに勢力を持つアレッポの君主ヌールッディーン・マフムードの許に伺候した[10]。ここでヌールッディーンの重臣となっていた叔父のシール・クーフに仕えたが、彼のとりなしによって主君ヌールッディーンからこの年齢でイクターを授与された[10]

1154年にヌールッディーンはダマスクスをはじめシリア内陸部の主要都市をほぼ全て手中にした[11]。このダマスクス開城には、エルサレム王国に救援要請を行ったブーリー家に不満をもつムスリム住民たちに和してこれを弾劾するヌールッディーン側の巧みな宣伝工作と、ダマスクスに残っていたナジュムッディーン・アイユーブとヌールッディーン側にいた弟シール・クーフが連係して内応していたことが大きいと言われている[12]。このダマスクス開城での功績によってアイユーブはヌールッディーンに仕える事となり、さらにダマスクスの統治権を安堵された。サラーフッディーンは若年ではあったが、これに伴いダマスクスの軍務長官(シフナ)職と財務官庁(ディーワーン)の監督職を任された[13]。数日で財務長官(サーヒブ・ディーワーン)のアブー・サーリムと確執が生じ早々にこれを辞職したが、ヌールッディーンはサラーフッディーンに味方してアブー・サーリムを叱責するなど、主君ヌールッディーンや叔父シール・クーフからの愛顧は大変に篤かったようである[14]


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