サラエボ事件
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サラエボ事件
暗殺場面を描いた新聞挿絵, 1914年7月12日付(La Domenica del Corriere)
場所 オーストリア=ハンガリー帝国 サラエボ
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯43度51分28.5秒 東経18度25分43.5秒 / 北緯43.857917度 東経18.428750度 / 43.857917; 18.428750座標: 北緯43度51分28.5秒 東経18度25分43.5秒 / 北緯43.857917度 東経18.428750度 / 43.857917; 18.428750
標的フランツ・フェルディナント
日付1914年6月28日
概要オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者暗殺事件。
武器ピストル
死亡者フランツ・フェルディナント
ゾフィー・ホテク
犯人ガヴリロ・プリンツィプ
ダニロ・イリッチ他多数
容疑大逆罪
対処懲役20年 : プリンツィプ他3名
絞首刑:イリッチ他2名
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サラエボ事件(サラエボじけん、サラエヴォ事件、サライェヴォ事件)は、1914年6月28日オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者[注釈 1]であるオーストリア大公フランツ・フェルディナントと妻のゾフィー・ホテクが、サラエボ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を訪問中、ボスニア系セルビア人(ボスニア語版)の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件[4]。この事件をきっかけとしてオーストリア=ハンガリー帝国セルビア王国最後通牒を突きつけ、第一次世界大戦の勃発につながった[5]

暗殺を実行したプリンツィプは、大セルビア主義テロ組織「黒手組」の一員ダニロ・イリッチによって組織された6人の暗殺者グループ(5人のボスニア系セルビア人と1人のボシュニャク人)のうちの1人だった。暗殺者グループとその支援者、および暗殺を計画したセルビア軍関係者は逮捕されて裁判にかけられ、有罪判決を受けたのちに処罰された。ボスニアで逮捕された者たちは1914年10月にサラエボで裁判にかけられた。その他の者たちは、暗殺とは無関係な罪状で1917年にセルビア当局によって起訴されたのちテッサロニキで裁判にかけられ、そこでは3人のセルビア軍高官に死刑が言い渡された。そのうちの1人であり、事件当時セルビア軍諜報部長だったドラグーティン・ディミトリエビッチは、自らがフランツ・フェルディナントの暗殺を指令したことを裁判中に告白した[6]
背景オーストリア大公フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィー・ホテク

1878年締結のベルリン条約により、オーストリア=ハンガリー帝国は(オスマン帝国に名目上の主権は残されたものの)ボスニアを占領し施政を行う権限を得た。同条約はさらに、セルビア公国が完全な主権国家としてオスマン帝国から独立することを承認していた。独立したセルビア公国では1882年にミラン・オブレノヴィチ4世がセルビア王ミラン1世として即位し、セルビア王国が成立した。セルビアの王家であるオブレノヴィッチ家はオーストリア=ハンガリーとの密接な関係を保ち、ベルリン条約によって定められた領土を統治することに満足していた[7]

1903年5月、ドラグーティン・ディミトリエビッチ率いるセルビア軍士官の一派がセルビア王宮を襲撃したことで、その状況は変化した。セルビア王アレクサンダル1世と王妃ドラガは繰り返し銃で撃たれ殺害された。一説には、その後「王と王妃の亡骸は服を脱がされ、残忍に切り刻まれた」と言われている[8]。襲撃者らは2人の死体を宮殿の窓から投げ捨て、王に忠実な勢力が反撃を試みる可能性を排除した[9]。襲撃を計画した者たちは、カラジョルジェヴィチ家ペータル1世を新たなセルビア王に即位させた[10]

新しい王朝は以前よりもセルビア民族主義的かつ親露的であり、セルビア王国とオーストリア=ハンガリー帝国との関係は悪化した[11]。1906年にはセルビアとオーストリア=ハンガリーとの間で関税戦争(一般に「豚戦争」と呼ばれる)が起こった[12]。そして1908年にオーストリア=ハンガリーが、膨大なセルビア人人口を抱えるボスニア・ヘルツェゴビナの併合を宣言すると、セルビアの政府と国民はこれに強く反発し、オーストリアに対する感情を極端に悪化させた[13]

1912年10月に勃発した第一次バルカン戦争において、セルビア王国を含むバルカン同盟オスマン帝国に勝利し、バルカン半島におけるオスマン帝国の旧支配地域を獲得した。1913年6月に始まった第二次バルカン戦争ではそれらの地域の領有を巡り元同盟国のブルガリア王国と対決して勝利し、セルビアはコソボと北マケドニアの領有を確定させた[14][13]。2つのバルカン戦争の結果、セルビアの領土面積は戦前の1.8倍となり、総人口も300万人から450万人に増加した[15][16]

セルビアの軍事的成功と、オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナ併合への憤慨は、「大セルビア」の実現を目指すセルビア民族主義者を勢いづけた[16][13]。ボスニア・ヘルツェゴビナでは、かねてよりボスニア系セルビア人がオーストリアによる併合に不満を抱いており、後年「青年ボスニア(英語版)」として知られるようになる、反オーストリア的・大セルビア主義的な革命運動が若者を中心に台頭していた[17][18][19]


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