サモ王国
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サモ王国(サモおうこく、ラテン語: regnum Samonem)もしくはサモ帝国(サモていこく、英語: Samo's Empire)は、史学上631年から658年にかけてサモ(英語版)を指導者として存在した部族連合国家を指す。チェコ人、ソルブ人、ドナウ川流域(現ニーダーエスターライヒ)の西スラヴ人を包含しており、最初のスラヴ人の国家とされている。 偽フレデガリウス年代記では、「サモの王国」(ラテン語:regnum Samonem)という表現が使われている[1]。一方17世紀のラテン語文献では「サモのスラヴ王国」(ラテン語:Samonem Sclauorum Regem[2])という表現がみられるようになる。 サモ王国は、モラヴィア、ニトラヴィア(西スロヴァキア)、シレジア、ボヘミア、ルーサティアにまたがっており、その中心地は南モラヴィア、ニーダーエスターライヒ、ニトラヴィアといった地域のどこかに置かれていたと考えられている[3]。 領域がカランタニアのアルプス・スラヴ人も包含していたとする説もあるが、歴史家J. B. ベリーによると、これの根拠となる資料は『バイエルン人とカランタニア人の改宗』のみである[4]。 スロヴァキアの歴史家リヒャルト・マルシナ パンノニアに住み着いたアヴァール人は、560年代に先住民のスラヴ人(ヴェンド人)を支配下に置いた。ヴェンド人は度々アヴァール人に対し反乱を試みており、サモは彼らに武器を提供するフランク人商人だったとされる。偽フレデガリウス年代記によればサモがヴェンド人の土地に赴いたのは623年ごろのことである[6]が、この年代には疑問が残る。ヴェンド人の反乱が起きたのは、626年にアヴァール人がコンスタンティノープル包囲戦に敗れた後だからである[6]。どちらにせよヴェンド人の反乱の中でサモは彼らの指導者となってアヴァール人を破り[6]、王(rex)に選出された[7]。サモは有力なヴェンド人の家系と婚姻関係を結ぶことで、自らの地位を強固なものとした。彼は少なくとも12人の女性と結婚し、22人の息子と15人の娘がいた。[8] 630年から631年にかけて、ヴェンド人の公ヴァルク
名称
領域
サモの王国