サモ王国
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サモ王国


 

631年?658年

サモ王国の位置サモの支配下にあったスラヴ人の領域(631年)
首都不明
言語スラヴ祖語
宗教スラヴ・ペイガニズム
カルケドン派[要出典]
政府王制
歴史・時代中世
 ? ダゴベルト1世に対する勝利631年
 ? サモの死去658年

前身後継

フランク王国
アヴァール・カガン国

フランク王国
カランタニア辺境領
アヴァール・カガン国
モラヴィア
ニトラ公国


現在 オーストリア
 チェコ
 ドイツ
 ポーランド
 スロバキア
 スロベニア

サモ王国(サモおうこく、ラテン語: regnum Samonem)もしくはサモ帝国(サモていこく、英語: Samo's Empire)は、史学上631年から658年にかけてサモ(英語版)を指導者として存在した部族連合国家を指す。チェコ人ソルブ人ドナウ川流域(現ニーダーエスターライヒ)の西スラヴ人を包含しており、最初のスラヴ人の国家とされている。
名称

偽フレデガリウス年代記では、「サモの王国」(ラテン語:regnum Samonem)という表現が使われている[1]。一方17世紀のラテン語文献では「サモのスラヴ王国」(ラテン語:Samonem Sclauorum Regem[2])という表現がみられるようになる。
領域

サモ王国は、モラヴィアニトラヴィア(西スロヴァキア)、シレジアボヘミアルーサティアにまたがっており、その中心地は南モラヴィア、ニーダーエスターライヒ、ニトラヴィアといった地域のどこかに置かれていたと考えられている[3]

領域がカランタニアのアルプス・スラヴ人も包含していたとする説もあるが、歴史家J. B. ベリーによると、これの根拠となる資料は『バイエルン人とカランタニア人の改宗』のみである[4]

スロヴァキアの歴史家リヒャルト・マルシナは、サモ王国の中心地は現在のスロヴァキア領域内のどこかにあったと主張している[5]。後の大モラヴィアとサモ王国の住民を民族的に結び付ける学説も多い。
サモの王国

パンノニアに住み着いたアヴァール人は、560年代に先住民のスラヴ人(ヴェンド人)を支配下に置いた。ヴェンド人は度々アヴァール人に対し反乱を試みており、サモは彼らに武器を提供するフランク人商人だったとされる。偽フレデガリウス年代記によればサモがヴェンド人の土地に赴いたのは623年ごろのことである[6]が、この年代には疑問が残る。ヴェンド人の反乱が起きたのは、626年にアヴァール人がコンスタンティノープル包囲戦に敗れた後だからである[6]。どちらにせよヴェンド人の反乱の中でサモは彼らの指導者となってアヴァール人を破り[6]、王(rex)に選出された[7]。サモは有力なヴェンド人の家系と婚姻関係を結ぶことで、自らの地位を強固なものとした。彼は少なくとも12人の女性と結婚し、22人の息子と15人の娘がいた。[8]

630年から631年にかけて、ヴェンド人の公ヴァルク(Wallucus dux Winedorum)という人物が史料上に登場する[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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