サム・ペキンパー
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サム・ペキンパー
Sam Peckinpah

本名David Samuel Peckinpah
別名義Bloody Sam
生年月日 (1925-02-21) 1925年2月21日
没年月日 (1984-12-28) 1984年12月28日(59歳没)
出生地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州フレズノ
死没地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州イングルウッド
身長175cm
職業映画監督
脚本家
ジャンル映画
活動期間1954年 - 1984年
活動内容1955年:『ガンスモーク』でテレビ脚本家、監督デビュー
1961年:『荒野のガンマン』で劇場映画監督デビュー
1969年:『ワイルドバンチ』を発表
主な作品
ワイルドバンチ
わらの犬
ゲッタウェイ
ガルシアの首
戦争のはらわた
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サム・ペキンパー(Sam Peckinpah, 1925年2月21日 - 1984年12月28日)は、アメリカ合衆国映画監督。代表作に『ワイルドバンチ』、『わらの犬』、『ゲッタウェイ[1]、『ガルシアの首』、『戦争のはらわた』など。

アメリカ本国ではその残酷な作風から「血まみれのサム」(原文:Bloody Sam)と呼ばれた。
経歴

サム・ペキンパーは1925年2月21日カリフォルニア州フレズノで生まれた。本人はインディアンの血を引いていると自慢していたが、実際はドイツ移民の子孫で、一族の本来の苗字はベッケンバッハ(Beckenbach)だったが、米国に移民してからペキンパー(Peckinpaugh)と改め、曾祖父の代からPeckinpahとなった。少年時代は読書好きで繊細な性格だったという。

第二次世界大戦では海兵隊として従軍する。戦後南カリフォルニア大学に入学し、そこで演劇を学んだ。卒業後しばらく舞台演出家として活動する。その後テレビ局の裏方としてスタジオに入り、ドン・シーゲルのもとに弟子入りする。『ガンスモーク』、『ライフルマン』、『風雲クロンダイク』といった脚本がテレビ局に買われ、西部劇のテレビシリーズのディレクターになった。

ペキンパーが初めて監督した劇場映画は、『荒野のガンマン』(1961年)である。翌年に公開された『昼下りの決斗』(1962年)で監督としての力量を認められたものの、『ダンディー少佐』(1965年[2] では編集権をめぐりプロデューサーと衝突、以後しばらく映画界から干されてしまった。しかしテレビ映画『昼酒』(1966年)での優れた演出が認められ、無事復帰することになる。

ワイルドバンチ』(1969年[3] では、スローモーション撮影を多用とした独特のバイオレンス描写でアクション映画に新境地を切り開いた。その反面、一般客や保守的な批評家からは、その過激な暴力表現に対する批判を招いた。『砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード』(1970年)はペキンパーによってベスト・フィルムであることを宣言された作品であり、彼の穏やかな一面が見られる。『わらの犬』(1971年)はペキンパー作品でも特に暴力描写が激しい作品で、公開後物議を醸した。ウォルター・ヒル[4] 脚本の『ゲッタウェイ[1]1972年)は人気俳優スティーブ・マックイーンを主役に迎え大ヒットを記録。マックイーンとアリ・マッグローは、共演後結婚している。

ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(1973年)はボブ・ディランが音楽を担当した[5]。ペキンパー本人も棺桶屋の役で出演している。『ガルシアの首』(1974年) はアメリカでは惨敗したが、日本ではヒットした。また、その次の監督作品『キラー・エリート』(1975年)『戦争のはらわた』(1977年)もアメリカでは興行的にいまひとつだったが、オーソン・ウェルズマーティン・スコセッシらに絶賛された作品でもある。


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