サム・ブラウン・ベルト
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スウェーデン軍士官用サム・ブラウン・ベルト(m/1939)着用例。サム・ブラウン・ベルトを身につけたジョン・パーシング将軍

サム・ブラウン・ベルト(Sam Browne belt)は、肩から斜めに掛けられたストラップ(斜革・負革)によって幅の広いウェストベルト(本革)を支持する構造を持ったベルトである。主に軍隊警察制服に装着され、拳銃を携帯するために用いられる。英語では”Sam Browne”と略されることも多い。日本では他の形式のものも含め革帯と呼ばれ、用途によって刀帯あるいは拳銃帯とも呼ばれている。
起源左腕を失ったサム・ブラウンの肖像

19世紀ごろ、英植民地インドに従軍していた英印軍騎兵将校サム・ブラウンが考案したとされる。

当時のヨーロッパの軍隊では、将校は常時軍刀を携帯していた。当時の刀帯には、ウェストベルトからスリングで鞘を吊るすものや、負革にフロッグ(剣差し)を着けたもの等があった。しかし戦闘になるとウェストベルトそのものが左右にずれてしまう事が多く、抜刀する際は左手で鞘を保持しなければならなかった。

従来の刀帯

19世紀前半まで英軍の歩兵将校が使用した、フロッグが付いた皮製のクロスベルト。

ウェストベルトからスリングで鞘を吊るすタイプの刀帯。

斜革がなく細い革帯にフロッグを着けた刀帯(エコール・ポリテクニークの制服)。このタイプの刀帯が使用されることはイギリス軍では殆んど見られなかったが[1]、インド駐留のイギリス軍では使われていた[2]

フロッグのアップ(エコール・ポリテクニークの制服)。

サム・ブラウンはインド大反乱只中の1858年8月31日、第2パンジャブ不正規騎兵隊(英語版)の大尉としてシーラポラー(Seerporah)近郊の戦闘に参加し、部下を率い再装填中の反乱軍砲兵陣地に突撃を行った際、敵砲兵に左膝上を斬り付けられ、さらに左腕を肩から斬り落とされた。そのため、彼は鞘を保持し抜刀することが出来なくなってしまった。

やがてブラウンは、抜刀しやすい箇所で鞘とウェストベルトを固定するために第2のベルトを右肩から掛けるというアイデアを思いつく。これは「Dリング」と呼ばれる吊り下げ器具を用いたものだった。またピストルを収めたフラップ・ホルスターや双眼鏡ケースなどもこれに吊るされた。英印軍に所属する他の騎兵将校たちも同様のベルトを着用し始め、やがてこれは標準的な軍服の一部となった。ボーア戦争中、このベルトは英国軍とトランスヴァール共和国軍の両軍によりコピーされた。

これに対して歩兵将校は2本のサスペンダーのようなクロスベルトによりウェストベルトを固定する方式のベルトを着用していた。これはインドで第60キングス・ロイヤル・ライフル軍団(英語版)の一員として従軍していた第5代スタンホープ准男爵サー・バジル・テンプラー・グラハム=モントゴメリー(英語版)中尉1878年頃に考案したとされている。

ブラウンがグラハム=モントゴメリーのアイデアを模倣したのか、また逆なのかという議論はいまだに絶えない。いずれにしても、どちらもベルトに関する特許を取得していなかったため、この議論は決着しないと見られている。

第一次世界大戦期の英国陸軍将校。2本の垂直ベルトを装着している

軍隊における使用

軍刀を装備する器具として開発された経緯に基づき、慣例として伝統的に軍刀を帯びる義務があった将校のみが着用した。しかし近代史のほとんどを通して、サム・ブラウン・ベルトはピストルを支えることが主たる目的となり、20世紀初頭に使用された大型拳銃では特に役立った。やがて軍刀と共に、実用性のある装備品としてよりは将校の地位を示す装飾品の一つと見なされるようになり、野戦装備からは姿を消していく。
イギリス連邦諸国No.2ドレス(左)とNo.4ドレス(右)の陸軍将校。No.2ドレスのパラシュート連隊准士官。左肩から斜革を着用している

第二次ボーア戦争があった1900年頃に英国陸軍全軍で将校用装備として採用されたのを皮切りに、英連邦各国もこれに続いた。20世紀に入る頃になると従来のサム・ブラウン・ベルトに加えて、新しい形態のベルトもに人気が集まった。これは2つの垂直なストラップでベルトを支えるもので、騎馬用の鐙から着想を得たのだとされているが、サム・ブラウン・ベルトに由来すると思われる幅の広いベルトで構成される。

第二次世界大戦後、サム・ブラウン・ベルトは徐々に使用されなくなっていった。例えば、カナダ軍では1968年にサム・ブラウン・ベルトを段階的に廃止した。しかし、英国陸軍の多くの連隊[3]及び海兵隊では、士官及び准士官(WO1区分及びWO2区分)が儀礼時のNo.2ドレス並びにNo.4ドレス及び一部のNo.1ドレスでサム・ブラウン・ベルトを装着している[4][5]オーストラリアでは、全ての士官が儀礼用制服にサム・ブラウン・ベルトを着用する権利が与えられ、またWO1区分の准士官も同様の権利が認められている。オーストラリアでは軍団ごとにバリエーションがあり、例えば王立オーストラリア装甲軍団やオーストラリア陸軍航空隊の将校は黒いサム・ブラウン・ベルトを装着する[6]

1905年から1939年[7](又は1941年[8])まで第16クイーンズ・ランサーズのカーネル・イン・チーフを務めたスペイン王アルフォンソ13世は、閲兵式の際サム・ブラウン・ベルトの斜革を前後逆につけたまま挑んだ。彼の到着前、誰かがこの間違いに気づき司令官に伝えたところ、司令官は全ての将校に斜革を逆につけるようにと命じた。この事件以来同連隊(1922年以降「第16/5クイーンズ・ロイヤル・ランサーズ」)では斜革を逆につけることが伝統となった[7][8]。そして、この慣習は現在のクイーンズ・ロイヤル・ランサーズまで受け継がれている[9]

第二次世界大戦まで


ボーア戦争中の英国陸軍将官。

第一次世界大戦中のライフル旅団将校。

1920年代のインドに派遣されたドーセット連隊第2大隊の将校。

第二次世界大戦期の英国陸軍将校(アーサー・パーシバル将軍)

第二次世界大戦期のオーストラリア陸軍司令部要員


現代


No.1ドレスで行進する英海兵隊。先頭の将校のみサム・ブラウン・ベルトを着用している。

No.2 ドレスで行進するプリンセス・オブ・ウェールズ・ロイヤル連隊将兵。中央の将校のみサム・ブラウン・ベルトを着用している。

ロンドンを行進する英陸軍将兵。所属連隊は全員異なっている。手前の2人の将校のみサム・ブラウン・ベルトを着用している。

アメリカ合衆国

アメリカ軍では、第一次世界大戦中の欧州戦線に従軍していたアメリカ遠征軍司令官パーシング大将が将校の階級を区別する為に採用した。しかし陸軍としての採用ではなかった為、当初は憲兵が港に駐留し、本土に帰還した将校からこれらを回収するなどしていた。


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