サミュエル・コーネリアス・フィリップス(Samuel Cornelius Phillips、1923年1月5日 - 2003年7月30日)は、アメリカ合衆国の実業家、レコード会社重役、音楽プロデューサー、ディスクジョッキー。サム・フィリップス (Sam Phillips) として知られる。1950年代のポピュラー音楽においてロックンロールの登場の一躍を担った。
1940年代から1950年代にかけてプロデューサー、レコード会社オーナー、タレント・スカウトとして活動していた。テネシー州メンフィスにあるサン・スタジオおよびサン・レコードの創立者として最もよく知られている。フィリップスはサンでハウリン・ウルフ、カール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス、ジョニー・キャッシュなどを発掘したが、1954年、エルヴィス・プレスリーを発掘したことが最大の功績であった。また彼はこの時代のリズム・アンド・ブルース、ロックンロールの数々のスターとも関わりがあった。1969年、フィリップスはサンを売却した。またフィリップスはホテル・チェーンのホリデイ・インの初期の投資家でもあった。人種差別撤廃を支持し、音楽業界での人種の壁の撤廃に尽力した。 アラバマ州フローレンスの貧しい小作農家の8人きょうだいの末っ子として生まれた。幼少の頃、両親および黒人労働者と共に綿花を摘んでいた。農場で労働者達が歌っていたことが若いフィリップスに多大な影響を与えた[1]。1939年、家族と共にテキサス州ダラスの牧師に会いに行く道中、当時メンフィスの音楽の中心地であったビール・ストリート
生い立ち
フローレンスの旧コフィー高等学校に入学し、学校のマーチング・バンドに参加した。当時彼は刑事事件弁護士を志望していた。しかし1941年、世界恐慌のあおりを受けて父は破産して亡くなり、母とおばの面倒を見るため高校を中退した[2][3]。家計を助けるため、フィリップスはグロッサリー・ストア、後に斎場に勤務した[4]。 1940年代、フィリップスはアラバマ州マッスル・ショールズのラジオ局WLAYでディスクジョッキーおよびエンジニアとして勤務した。フィリップスによると、このラジオ局の白人黒人関係なく曲を流す「オープン・フォーマット」が後のメンフィスでの彼の業務に多大な影響を与えた。1945年から4年間、ラジオ局WRECでアナウンサーおよび音響技師として勤務した。 1950年1月3日、フィリップスはテネシー州メンフィスのユニオン通り706番地にメンフィス・レコード・サービスを開業した。メンフィス・レコード・サービスではアマチュア音楽家に演奏をさせ、B.B.キング、ジュニア・パーカー、ハウリン・ウルフなどを輩出し、フィリップスは彼らを大きなレコード会社に売り込んだ。音楽だけでなく、フィリップスは結婚式や葬式などのイベントを録音して売っていた。1952年からメンフィス・レコード・サービスで自身のレコード・レーベルのスタジオとしても機能するようになった。 フィリップスはジャンルを問わなかった。彼はブルースにも興味があり、「ブルースとは、白人黒人問わず人生はいかに難しいかそしていかに素晴らしいかを考えさせる。ブルースは音楽でありながら、祈り、諭す。毎日毎日やって来る困難を取り除く」と語った[5]。 音楽評論家のピーター・グラルニックなどによると、フィリップスがレコーディングした19歳のアイク・ターナーが作曲しリードしていたジャッキー・ブレンストン&デルタ・キャッツの『Rocket 88
レコード会社の設立
16年間で226枚のシングルをレコーディングし、当時のロックンロールのレコード会社で最多であった[6]。 フィリップスとプレスリーは新しい音楽の形を形成した。フィリップスはプレスリーについて「エルヴィスはバラードも歌うし、それはとても素晴らしい。エルヴィスとロイ・オービソンはどちらも泣けるバラードを歌う。しかしもしエルヴィスをバラードでデビューさせていたら、エルヴィス・プレスリーはここまで売れていなかっただろう」と語った[7]。 フィリップスは「新たな独特なアーティストの育成、音楽業界の自由性、まだ売れていない歌手を世に送り出すためにふらりとやって来た」と語った[8]。 プレスリーはフィリップスのスタジオでアーサー・クルダップの『ザッツ・オール・ライト』をレコーディングし、最初はメンフィスで、その後アメリカ合衆国南部で大きな成功をおさめた。1954年にプレスリーはフィリップスのオーディションを受けたが、この曲を歌うまではフィリップスはプレスリーからそれほどの大きな印象を受けなかった。最初の6ヶ月、ビル・モンローのブルーグラスをアップビートにしたB面の『Blue Moon of Kentucky
新人の発掘
地域的に人気となったにもかかわらず、1955年半ばまでにフィリップスのスタジオは経済危機に陥り、11月に2万5千ドルをつけたアトランティック・レコードより高額な3万5千ドルをつけたRCAレコードにプレスリーとの契約を売却した。プレスリーとの契約の売却交渉中、パーキンスの『ブルー・スエード・シューズ』が全国的な大ヒットとなった。
1950年代終盤、プレスリーとの契約を売却してから多くのアーティストが彼の元を離れ、メンフィスの音楽業界での地位を取り戻すことができなくなった。
これまでの経験を活かし、RCAビクターでプレスリーの育成担当となった。スティーブン・H・ショールズがRCAへ移籍後のプレスリーの公式プロデューサーであったが、プレスリーはフィリップスから学んだやり方で多くの曲を演奏していった。
フィリップスはオープン・スタイルを採用しており、ミュージシャン、特にプレスリーを育成する上での洞察力があり、発掘して長所を活かして可能性を引き出した。またアーティストがいつ最高の演奏ができるのかを感じ取るセンスを持っていた。フィリップスは技術的完璧さよりも感覚を大事にレコーディングをしていた。フィリップスはプレスリーに完璧にしようとするなと語った。フィリップスは常に自分にとっての完璧/未完全を考えていた。これは技術的なことではなく、曲の感覚や感情をいかに完璧に伝えるか、技術的に未完全であっても曲に命を吹き込むことを重要視していた。
フィリップスはプレスリーのレコーディングで革新的技術を試した。当時の多くのレコーディングではヴォーカルの音量を上げていた。しかしフィリップスはプレスリーの音量を抑え、伴奏とマッチさせた。またテープ・ディレイでエコーがかかるようにした。フィリップスの技術を知らなかったRCAは『ハートブレイク・ホテル』のレコーディングで同様のエコーを再現することができなかった。サン・レコードの音を再現する試行錯誤の過程でRCAはスタジオの誰もいない広い廊下でエコーを作り出そうとしたが、フィリップスが作り出したサン・レコードのような音にはならなかった。
プレスリーがサン・レコードにやって来た時には彼のバンドはなかった。フィリップスはプレスリーにはリズム・ギターが必要と考え、リード・ギター奏者にスコティ・ムーア、ベース奏者にビル・ブラックを選んだ。ドラム奏者のD・J・フォンタナを加えたこの選択は、フィリップスがプレスリーとの契約をRCAに売却した後でさえも『ハートブレイク・ホテル』、『ハウンド・ドッグ』、『Don't Be Cruel 』などロックンロール史上最大のヒット曲を何曲も生み出した。
ロックンロール黎明期のフィリップスの重要な役割は1954年12月4日、『ミリオン・ダラー・カルテット』で実証された。フィリップスのスタジオでジェリー・リー・ルイスがカール・パーキンスのレコーディング・セッションのピアノを弾いていた。プレスリーが不意に立ち寄り、フィリップスはジョニー・キャッシュを呼び入れて4人の即興セッションをリードさせた。
フィリップスはこの4人に、最初にゴールド・レコードを獲得した者にキャデラックを無償で与えると約束し、カール・パーキンスが獲得した。