サム・ウッド
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サム・ウッド
Sam Wood
1922年
本名サミュエル・グロブナー・ウッド
別名義チャド・アプリゲート
生年月日 (1883-07-10) 1883年7月10日
没年月日 (1949-09-22) 1949年9月22日(66歳没)
出生地 アメリカ合衆国
ペンシルベニア州フィラデルフィア
死没地 アメリカ合衆国
カリフォルニア州ハリウッド
職業不動産ブローカー
俳優
映画プロデューサー
映画監督
作家
ジャンル映画
活動期間1917年 - 1949年
配偶者クララ・ルイーズ・ラウシュ(1908年 - 1949年 )
著名な家族ジーン・ウッド(長女)
K・T・スティーブンス(英語版)(次女)
主な作品
オペラは踊る
マルクス一番乗り
チップス先生さようなら
打撃王
誰が為に鐘は鳴る
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サム・ウッド(Sam Wood , 1883年7月10日 - 1949年9月22日)は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア出身の映画監督。『オペラは踊る』、『マルクス一番乗り』、『チップス先生さようなら』、『打撃王』、『誰が為に鐘は鳴る』に代表される数多くの大ヒット映画を手掛けたことで知られている。
経歴

20世紀初頭に不動産ブローカーの傍ら、チャド・アプリゲートの名で俳優として活動していた[1]

1915年からの2年間をセシル・B・デミルの下で映画助監督として見習いの経験を積んだ[1][2]1919年から映画監督として活動を開始した[2]。1920年代を通してパラマウント・ピクチャーズの看板スターであるグロリア・スワンソンウォーレス・リードが出演する映画を多く手掛けている[1]1927年にはメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)との提携を開始してマリオン・デイヴィスクラーク・ゲーブルマリー・ドレスラージミー・デュランテらの出演する映画も手掛けるようになった[2]。同じシーンを平均20回程度、繰り返し撮影するのが彼の習慣だった[2]トーキーの時代に突入してからも、その手腕は高く評価され続けた。

1939年の『風と共に去りぬ』も一部手がけている[3]アカデミー監督賞に3回ノミネートされたが、いずれも受賞は出来なかった[4]

1943年製作の『誰が為に鐘は鳴る』はスペイン内戦を舞台としたアーネスト・ヘミングウェイ同名小説を映画化した作品である。この作品が彼の最大のヒット作、そして最後の大ヒット作にもなった[1]

ウッドは1908年から1949年の彼の死までクララ・ルイーズ・ラウシュという名の女性と結婚生活を送り、二人の間に生まれた2人の娘、ジーン・ウッド(長女)とK・T・スティーブンス(英語版)(次女)は女優となった[1]

保守思想から右翼政治団体「アメリカの理想を守るための映画同盟」(MPA)を結成し、その会長を務めた。このMPAは結成時に、自由なアメリカ的な暮らしを破壊的な手段で侵害して変えようとする共産主義ファシズム、同志的信念の高まりに対する断固たる戦いを表明した[5]ウォルト・ディズニークラーク・ゲーブルゲイリー・クーパーロナルド・レーガンバーバラ・スタンウィックジョン・ウェインも創設メンバーに含まれていた[6]1947年下院非米活動委員会で証言し、ハリウッド内の「」寄り勢力を激しく批判している[2]。かつてウッドに協力して『オペラは踊る』と『マルクス一番乗り』に出演したグルーチョ・マルクスマルクス兄弟の三男)はウッドを「ファシスト」と呼び[2]、彼のアフリカ系アメリカ人に対する人種差別的な発言に激怒した[7]

サム・ウッドは1949年9月22日心臓発作により、死去。66歳没[8]カリフォルニア州グレンデールにあるフォレストローン記念公園墓地(英語版)に埋葬された[9]

映画界での貢献度の高さが評価され、ハリウッド大通りにあるハリウッド・ウォーク・オブ・フェームには彼の星が埋め込まれている[1]
主な監督作品

オペラは踊る A Night at the Opera (1935年)

マルクス一番乗り A Day at the Races (1937年)

海の若人 Navy Blue and Gold (1937年)

チップス先生さようなら Goodbye, Mr. Chips (1939年)


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