サミー・ソーサ
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この項目では、元野球選手について説明しています。サッカー選手については「サムエル・ソーサ」をご覧ください。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はペラルタ、第二姓(母方の)はソーサです。

サミー・ソーサ
Sammy Sosa2012年
基本情報
国籍 ドミニカ共和国
出身地サンペドロ・デ・マコリス州サンペドロ・デ・マコリス
生年月日 (1968-11-12) 1968年11月12日(55歳)
身長
体重6' 0" =約182.9 cm
225 lb =約102.1 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手指名打者
プロ入り1985年 アマチュア・フリーエージェントとしてテキサス・レンジャーズと契約
初出場1989年6月16日
最終出場2007年9月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


テキサス・レンジャーズ (1989)

シカゴ・ホワイトソックス (1989 - 1991)

シカゴ・カブス (1992 - 2004)

ボルチモア・オリオールズ (2005)

テキサス・レンジャーズ (2007)

この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

サミュエル・ケルヴィン・ペラルタ・ソーサ(Samuel Kelvin Peralta Sosa, 1968年11月12日 - )は、ドミニカ共和国サンペドロ・デ・マコリス州サンペドロ・デ・マコリス出身の元プロ野球選手右翼手)。右投げ右打ち。

ニックネームは"Slammin' Sammy"(スラミン・サミー)。アメリカ合衆国外出身選手として2番目に多い本塁打記録を持つ[1]
経歴
プロ入り前

貧しい家庭に育ち、7歳の時に父親が42歳で死去した[2]。オレンジジュースの販売や靴磨きで生計を助け、木の枝をバット替わりにし牛乳の紙パックをグラブ替わりに野球をしていた[3]
レンジャース時代

1985年7月30日、ドラフト外でテキサス・レンジャースと契約。

1989年6月16日ヤンキース戦でメジャーデビュー。
ホワイトソックス時代

1989年7月29日シカゴ・ホワイトソックスへトレードで移籍。

1990年は153試合に出場してリーグ7位の32盗塁を記録し、二塁打三塁打本塁打盗塁の4つの部門でリーグで唯一となる2桁以上の成績を残した[3]。しかし打率は.233と低く、リーグで4番目に多い150三振を記録した。

1991年は開幕戦で2本塁打、5打点の活躍も、その後は打率が2割で推移し[4] 不振のためシーズン途中マイナーに降格した。
カブス時代

1992年3月30日にジョージ・ベルとのトレードで、ケン・パターソンとともにシカゴ・カブスへ移籍した。

1992年は故障者リスト入りしたため67試合の出場にとどまった。

1993年は33本塁打、36盗塁で球団史上初めて30-30を達成し[3]、6月30日から7月2日にかけて9打席連続安打を放ち球団タイ記録(1902年以降)となり、9月29日には1試合4盗塁で球団タイ記録となった[5]

1994年は打率.300、25本塁打、70打点とビル・バックナー以来13年ぶりにチーム3冠を達成した[6]

1995年は36本塁打、34盗塁で再び30-30を達成した。オールスターに初めて選出され、シルバースラッガー賞を初受賞した。

1996年は8月20日に死球を受け、この試合を最後にシーズンを終えてしまった。本塁打数は40本を記録し、5月16日のアストロズ戦では、1イニング2本塁打と球団史上初の快挙を達成した。7月には打率.358、10本塁打、29打点の活躍でプレイヤー・オブ・ザ・マンスを初めて受賞した[7]

1997年は全162試合(161試合に先発出場)に出場して球団記録を更新する174三振[8]。この年1998年から4年総額4250万ドルで契約延長した[9]シカゴ・カブス時代
(1998年)

1998年マーク・マグワイアシーズン最多本塁打記録争いを繰り広げ、ともにロジャー・マリス1961年に記録した年間最多本塁打記録61を破り、最終的にソーサが66本、マグワイアが70本を記録した。5月24日時点でソーサの本塁打数は9でマグワイアに対し15本も差があったが、翌日からの30日間に21本塁打を放ち、6月には月間新記録となる20本塁打を記録した[3]。9月13日にマグワイアに5日遅れでマリスの記録を上回り、9月23日にシーズン11回目となる複数本塁打を放ち、ハンク・グリーンバーグのMLB記録に60年ぶりに並んだ[3]

本塁打王になれなかったが、158打点で打点王。塁打数はリーグ最多の416を記録した。これは1948年スタン・ミュージアルが429塁打を記録して以降最多である[10]。チームのワイルドカードでのプレーオフ進出に貢献し、MVPの投票で32票中30票の1位票を集めMVPを受賞した[11]

1998年1999年2001年の3シーズンに60本塁打以上を記録したがいずれのシーズンも本塁打王のタイトルを獲得していない(1998年、マグワイア:70本、ソーサ:66本、1999年、マグワイア:65本、ソーサ:63本、2001年、バリー・ボンズ:73本、ソーサ:64本)。しかし2000年(50本塁打)と2002年(49本塁打)の2回本塁打王となっている。


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