サミュエル・モールス
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サミュエル・モールス
1840年の写真
生誕Samuel Finley Breese Morse
(1791-04-27) 1791年4月27日
アメリカ合衆国 マサチューセッツ州チャールズタウン
死没 (1872-04-02) 1872年4月2日(80歳没)
アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク
国籍 アメリカ合衆国
職業画家発明家
著名な実績モールス符号
署名

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サミュエル・フィンリー・ブリース・モールス(英語: Samuel Finley Breese Morse、1791年4月27日 - 1872年4月2日)は、アメリカ画家発明家。モールス電信機を発明し、モールス符号に名を残した。画家としても名を成している。

また、アメリカ合衆国における奴隷制確立を支持し、反カトリックと反移民運動も支援した。
生い立ちモールスの生家(チャールズタウン、1898年ごろの写真)

マサチューセッツ州チャールズタウン市(現ボストン市)生まれ。父はイギリス移民牧師で、「アメリカ地理学の父」と称されるジェディディア・モールス (1761 - 1826)、母はアン・フィンリー・ブリース (1766 - 1828) である[1]。父はカルヴァン主義の有名な伝道師連邦党の支持者だった。彼はピューリタン的伝統の保持を望み、連邦党がイギリスとの同盟と強い中央集権政府を目指していると考えていた。教育についても連邦主義的枠組みを信じ、長男には、カルヴァン主義の道徳や慣習を教え込んだ。

マサチューセッツ州アンドーヴァーフィリップス・アカデミーで学び、イェール大学に進学して宗教哲学や数学を学ぶ。また、イェール大学在学中にベンジャミン・シリマンやジェレマイア・デイの電気についての講義を受けている。絵画の才能を発揮し、それで身を立てるようになった。1810年、イェール大学卒業[注釈 1]
絵画

モールスの描いた Landing of the Pilgrims は、険しい顔で粗末な衣服を着た人々を描いており、彼のカルヴァン主義的信念を表現している。彼の絵は連邦主義者の心理を捉えた。イングランドから来たカルヴァン主義者が北米に宗教と政府というアイデアをもたらし、2つの国を結び付けたという連邦主義的考え方も表している。この作品は有名な画家ワシントン・オールストンの注意を惹きつけた。オールストンはモールスをイングランドに連れて行きベンジャミン・ウエストに会わせることにした。オールストンはモールスの父と相談し、イングランドで3年間絵画を学ばせることを決め、1811年7月15日、モールスはオールストンと共にリビア号という船で出航した。Dying Hercules (1812)

イングランドで、モールスはオールストンから絵画技法を徹底的に教え込まれた。1811年末、王立芸術院への入学許可を得る。そこでルネサンス新古典主義の作品に感動し、ミケランジェロラファエロの作品をじっくり観察した。人物の写生の訓練をし、解剖学的知識を吸収すると、モールスは初期の傑作とされる Dying Hercules を完成させた(絵画の前に習作として彫刻を作っている)。

Dying Hercules は、イギリスと連邦党への政治的声明と受け取られることもあった。このころ米英戦争が勃発している。反連邦党のアメリカ人たちはフランスと手を組んでイギリスと対抗しようとし、強い中央集権的政府は民主主義にとって危険と考えていた。

戦争が本格化したころ、モールスが両親に宛てた手紙の内容は反連邦主義的色彩が濃くなっていった。彼はそんな手紙の一通に「私は、北部諸州の連邦主義者が暴力的な対抗手段をとることで、フランスとの同盟より多くの損害を国家に与えたと断言する。彼らの議事録はイギリスの新聞にも掲載され、議会でも読まれ、国中に流布している…彼らは連邦主義者を臆病者と呼び、国家への反逆者なのだから反逆者として絞首刑にされるべきだと言っている」と記している[要出典]。

父はモールスの政治的信条を変えさせることはなかったが、影響を及ぼし続けた。評論家はモールスのイングランドでのもう1つの傑作 Judgment of Jupiter に父のカルヴァン主義的考え方の影響が見られるとしている。ユーピテルを伴い、群衆の上に両腕を広げて立ち、審判を下している。マルペーッサは罪の意識と恥辱を表現するように夫の腕に身を投げ出そうとしている。優しくマルペーッサを愛していたイーダースは彼女を抱きとめようと急いでおり、アポローンは彼女の思いがけない決心に驚いて凝視している。

評論家は、ユーピテルが神の全能性(全ての出来事を見ている)を表していると示唆している。不倫に対する道徳観を表していると見る者もいる。19世紀初期のアメリカの絵画は宗教的テーマを扱ったものが多く、モールスの作品もその初期の例である。Judgment of Jupiter はモールスの宗教的信念を表すと同時に反連邦主義者への支持を表明した作品とされる。ウエストはこの作品を展覧会に出品しようとしたが、モールスの帰国のときが近づいていた。1815年8月21日イングランドを発ち、アメリカに戻ると画家として活動を開始した。ジョン・アダムズの肖像画

1815年から1825年まで、モールスは画業の腕を磨き、アメリカの文化と生活の本質を絵に捉えようとした。1816年、連邦党所属の元大統領ジョン・アダムズの肖像画を描いた。そのころ、ダートマス大学で連邦主義者と反連邦主義者の衝突が起こった。1817年、モールスは同大学学長 Francis Brown と後のダートマス大学訴訟(英語版) (1819) で大学側と対立したウッドワードの肖像画を描いている。

また、サウスカロライナ州チャールストンの上流階級で肖像画の依頼を求めている。1818年に描いた Mrs. Emma Quash の肖像画はチャールストンの豊かさを象徴していた。モールスは若い画家としてはかなり成功を収めた。しかし1819年に経済恐慌が起きて絵の依頼が減少し、生活が大きく変化した。カルヴァン主義では恐慌で生じた不和を修復できず、モールスの父は30年間務めた牧師の地位からの辞任を強制された。教会はユニテリアン主義の支部となり、モールスの父のカルヴァン主義とは相容れないものとなり、政治的にも反連邦主義となった。

モールスは父の宗教的信念を尊敬していたが、政治的にはユニテリアンと近い考え方だった。モールスはニューハンプシャー州ポーツマスの有名なユニテリアンへの改宗者 Pickerings の肖像画も描いている。ユニテリアンへの共感は反連邦主義的考え方の表れと捕らえる評論家もいる。1820年、当時の大統領ジェームズ・モンローの肖像画を描いた。The House of Representatives (1822-23)

そのころニューヘイブンに移住。1821年、議会の様子を絵にするよう依頼された。当時フランソワ・マリウス・グラネの The Capuchin Chapel in Rome という絵がアメリカ各地で25セントの入場料をとって展示され成功を収めていた[2]アメリカ合衆国下院を描いた House of Representatives もその描法を真似て建築を精巧に描き、劇的な光と影の演出が加えられている。彼はこの若い国家に栄光をもたらすようなアメリカ独自の題材を好んでとりあげ、アメリカ的民主主義を表現した。彼はワシントンD.C.に赴いて新しい議事堂をスケッチし、そこに80人の議員を描き入れた。劇的効果を上げるため、また民主主義の原則への議員たちの献身が昼夜行われていたことを強調するため、夜のシーンにしている。


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